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お里 

文楽で「お里」といえば、私はまず

    すしや

の娘を思い出します。
いじらしいまでに弥助を思うこの少女を何回見てきたことでしょうか。簑助さん、文雀さん、紋寿さん、一暢さん、当代勘十郎さん、若手会では簑二郎さんもありました。
そしてもうひとりの「お里」が

    壺坂観音霊験記

の主人公です。
この初春公演では文雀師匠、相手役の沢市は和生さんでした。
この二人が醸し出す雰囲気は独特のものでした。
なんというべきか、沢市の家によどんだ空気が漂っているのです。
実は私が壺坂を見る前にまゆみこさんとお話したのですが、まゆみこさんがまさにそういう感じを抱かれたとのことでした。まゆみこさんの炯眼につられてそう見えたということもまったくないかと言われると自信はありませんが、私も確かに同じように感じました。
沢市は妻を疑い、お里は純粋であるがゆえに言葉に出しては自分の行為を説明しない。そのことでよどむ空気が沢市の言葉によって切り裂かれました。
お里も初めて心の中を口説いてみせます。それが

    三つ違ひの兄さんと

であるわけです。
現世に絶望して阿弥陀の救済~浄土への往生~を願う沢市と観音の利生を信じて日参するお里。
障害を持った者にしか分からない社会との隔絶感は絶望となっても不思議ではありません。一方のお里の献身もまた偽りのないものです。
微妙に異なるベクトルがカチリと音を立てるように交差した時、事態の解決の糸口がわずかな光明として差し込んできたという印象を持ちました。
今までとは違った「壺坂」を見たように思います。

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そのお里ですが、とにかく気がつく人です。文雀師匠のお里を見ていてつくづくそう思いました。
目の不自由な人が何を望んでいるか、何を助けてあげればこの人が自由に動けるか、そういう細やかな気遣いを文雀師匠のお里は見せてくれました。
例えば壺坂寺に向かうときの沢市との距離のとり方。沢市を

  引っ張らないでリードする

姿もやさしさにあふれます。
沢市の杖の両端を沢市とお里が持って歩いていましたが、寺に着くとお里はそれを離します。そのときお里は自分の持っている杖の先端を

  丁寧に地面につけて安定させる

のです。ただ手を離したのでは沢市の杖はぶらぶらしてしまったり不安定に地面についてしまったりして危険があります。ケアというのは押し付けるものではなく、相手が自然に動けるようにもっていくことだ・・・そういうところを実に細やかに演技されました。
そういう下地があるからこそ沢市の死を嘆いて絶叫するお里に共感できました。
私自身、観音の利生で障害が除かれるなどとはまったく思いません。非現実的な話ではありますが、それでもこのお里なら十分醍醐味を味わえる演目だとしみじみ感じ入りました。

ふと思うのです。「すしや」のお里は十年後には「壺坂」のお里のようになっているのだろうかと。

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