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発掘 

斉明天皇の墓とされる奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳のすぐ前に7世紀後半の石室が見つかったというニュースがありました。日本書紀には斉明天皇陵の前にその孫にあたる大田皇女を埋葬したいう記述がありそれと見事に一致するためおそらくこれは西暦667年に亡くなった

    大田皇女

の墓だろうと考えられます。
大田皇女というのは天智天皇の娘で、持統天皇の姉。大海人皇子(のちの天武天皇)のキサキとなって大伯皇女や大津皇子を産んだ人です。なくなったときの年齢はよくわかりませんが20代かといわれ、かなりの若死にだったようです。
私は上代の歴史には疎いのですが、授業などでしばしばこの大伯皇女と大津皇子の話を取り上げるのです。大津皇子が謀反の罪で殺されたことをめぐって、伊勢斎王であった姉の大伯皇女が詠んだ歌が残っており、姉と弟のとても親密な関係を詠んだものとして関心が深く、話をするわけです。
謀反の罪を着せられ(無罪であった可能性が高い)た大津は死ぬ前に一度会おうということだったのか、伊勢にいた姉の大伯皇女を訪ね、そのときに大伯が歌を詠んだと記されているのです。そのうちの一首は

  わが背子を大和に遣るとさ夜深けて
          暁露にわが立ち濡れし


というものでした。
この二人の姉弟愛を思ううちに、私は伊勢物語の伊勢斎宮の話と引っ掛けて、何とかこれを浄瑠璃にすることは出来ないかと思ったのでした。

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そして、大津皇子を陥れた側の人物を創作し、その男が大伯皇女に迫り、そこに村崎という名の侍女を配して、彼女の機転で大伯は魔の手から逃れることにしました。ここは思い切りふざけて、悪役の男が下剤を飲まされて飛んで逃げるというような喜劇的趣向にしました。
やがて訪れた大津皇子。姉は何とか弟を助けたく、自分が身代わりとなってここで自害し、大津を逃がそうといいます。姉と弟でありながらともに美しい容姿を持つので何とかごまかせるのではないかとの判断からでした。しかしそうなると大伯皇女が突然消えるという不自然が生じます。するとあの村崎という侍女がその身代わりには私が、と申し出るや刀を自らに突き立てるのでした。

という感じのお話にしたのですが、これを読んでくださった某作家(大阪の方で、直木賞作家です)さんからは、

    歴史をいじり過ぎ

で、大津が助かって逃亡するなんて、ちょっと・・・と言われてしまいました。
私としては存分に「いじる」ことをよしとしたつもりだったのですが。

とまぁ、そんな昔のことをつい思い出してしまった、大田皇女の墓のニュースだったのです。

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コメント

遅くなってのコメントですが、この発見わくわくしました!!土日の現地説明会 飛んでいきたい気分でしたがタケコプターもどこでもドアもないのであきらめました・・・
創作ものとして「大津皇子は生きていた」って十分ありだと思いますがねぇ。義経だってモンゴルへ渡っちゃうんですから(笑)
斎宮から明日香がいかに遠いか は実際の距離を肌で知っているので 大伯皇女のうたは涙なしにはいられませんv-409

  • [2010/12/22 23:15]
  • URL |
  • あいらぶけろちゃん
  • [ 編集 ]
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♪あいらぶけろちゃんさん

そうですか、よくご存じなのですね、斎宮と大和の距離感。山越で夜道は大変だったでしょうね。
しかも、物理的距離だけでなく、斎宮(斎王)という、簡単に伊勢を離れることのできない「立場上の距離」もありますから、哀しさがさらに募ります。
知盛も教経もみんな生きてましたから(笑)、大津も生きていたことでお許しあれ、という気持ちです。

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