忠臣講釈の塩冶判官 

『太平記忠臣講釈』(近松半二、三好松洛ほか)は明和三年(1766)十月十六日、大坂竹本座での初演。あの『仮名手本忠臣蔵』から18年後のことです。
暇なときにちらちらと読んでいます。
ここでの塩冶判官の刃傷の経緯はどのようなものだったのか、ちょっとばかりメモしておきます。

勅使の饗応を命ぜられた者のうち、桃井播磨守、河野大炊之介の家来が、高師直が登城するときに

    黄金百枚と巻絹

の進物を並べて待っています。師直は薬師寺治郎左衛門とともにそれらを受け取り、「それにくらべてあの塩冶判官というのはケチで、

    桑酒や干物

しか持ってこない」などとけなしています(どっちがケチやねん、といいたくなりますが)。
その日、城で塩冶判官が「能の時には烏帽子素襖でよいのか、熨斗目長袴を着用するのか」と尋ねるのですが、師直は答えてくれません。そばにいる矢間十太郎はかなり頭にきています。
そのあと勅使の前で遅参を咎めたり、師直の策略にかかって能の場に烏帽子素襖で現れるとさんざんに罵倒したりします。
そして配膳となり、判官が膳部を用意するとこれまた師直が間違っているといいます。

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しかしそれは師直に指示されたとおりのこと。判官がそう訴えると、「自分の誤りを人に塗るのか」と言って膳部を打ち落として席を蹴立てて去ります。料理は散乱、判官の気は狂乱。「堪忍の二字、今ここに家の断絶、時来たりし。『是非もなし、これまで、おのれ師直逃さじ』」と決意して判官は師直を追うのです。
刃傷の場は、『仮名手本』のようには舞台で見せないのですね。そのあと大騒動になった、ということになっています。
塩冶の屋敷から駆けつけたのは

    大星力弥

このあと彼は伯耆国まで二百里以上を五日半で走って注進することになります。
とにかく無念ですね。
負けるものは理があろうとなかろうと負ける。昔の話、ではありません。今の世の中でも組織を守るためなら個人など虫けら同然に扱うのはいくらでもあることです。声が大きく、すばやく立ち回った者だけが助かるのであって、情報に疎い者はいつのまにか放逐される。それとあまり違わないのだろうと思います。
判官は家のことを考えたら我慢すべきだったのでしょう。それでどれだけ多くの人が不幸になるか、彼とてわからないはずはないでしょう。

太平記忠臣講釈の二段目は

  堪忍の文字は貴賎の宝なれども

      時によってはやむ事を得んや

で始まります。「得んや」が「塩冶」につながっていく文章です。
一寸の虫にも五分の魂。どう考えても「堪忍」が大事なのに、時としては、あまりにも耐え難いときには・・・・。判官の気持ちはわかるような気がします。
「せまじきものは宮仕へ」にせよ、浄瑠璃の心は二百年も三百年も経っても何も変わらない。
つらい話です。

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