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信濃屋(その5) 

お石も娘のしょんぼりした顔を見ると、持病の虫だろうかと気になり、半分は娘可愛さで、意見もそこそこにして一緒に奥に入っていきます。
入相過ぎになりました。行灯を提げた下女のりんが出てきてぶつぶつ言いながら夜なべの仕事を始めます。そこに舞い戻ってきたのはほおかぶりをした五六。
この家をうかがって門口を開けて見回しますが、弟の姿はないので土に這うようにして縁の下に入り、身を潜めて待ってます。お半はいてもいられぬ一間をそっと抜け出して表のほうへ出てきます。こらえていた涙が一気に出て泣き出します。その口に袖を当てますが、それでも声が漏れ、振袖の脇から雨より激しく涙が伝わります。そして、晴れない心を静めて「長右衛門様夫婦の意見、母様のお叱りを無理だとはちっとも思わないけれど、ほかの男は持つまいという、神々様への誓言を守って見てもどうしても思人には添えない身。義理や孝行を欠く上に。浮名を立てられるよりも、死んでこの苦しみから助かろう、と。他愛なく泣き入る娘心は、突き詰められて、中にいろいろ詰まっている鏡台の引き出しを開けて取り出す刃のように薄い縁でした。長右衛門様、お許しください。あなたのお心にそむいての嫁入りがいやだからこそ私は今死にます。お絹様というかたがいらっしゃるので、所詮夫婦にはなれないこの世。必ず、必ず未来では年をきにせず夫婦になって下さい、というのはあなたより先に死んであの世に早く生まれたら老い女房と嫌われるだろうかと私はそれが心配です。とりわけ、お絹様。これまでのお志を無駄にした不義、いたずら。お赦しになって下さい。何よりも母様がさぞかし嘆くだろうと、そればかりが黄泉の障害になるのです、と忍び音に泣くのは、女鹿が夫を恋い慕って世をいやになったかのような秋風が身に染むのでした。

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お半が気を取り直して剃刀を取ると、後ろからそれを奪う者があります。長吉でした。お半は「見逃して死なせてほしい」といいますが、長吉は「無分別なことを。死んで花実は咲きません。あの伊勢参りの下向の時、あなたを襲おうと思っていたのに、いくら伊勢参宮だからといっても、よくも長右衛門様に初穂をあげられたものですね」「おまえはそれを」「いやもう言いません。やはりあなたが好きですからね。いくら長右衛門様に焦がれても、年が違います。その点私は今年十八。浄瑠璃や祭文でいうとあなたはお染、内の子飼の久松は・・お粗末ながらこの長吉。うまく符合しますね。納得して下さるならすぐにあなたを連れて逃げます。さささどうです」とお半を引きずり寄せてにきび面を寄せてきます。
お半が「いやらしい。離しなさい」とつきのけても長吉は放しません。その時縁の下から兄の五六が顔を出しますが、「兄貴まだ早い。日が暮れて間がないから連れ出すには早い」と言い紛らして懐に隠した脇差をまたぐらから繰り出していると、それに気を取られて手元がお留守になります。そのすきに下女のおりんがお半と入れ替わります。おりんはお半を奥へやり、行灯の火を吹き消します。長吉が「お半様、どうなさるのです」という声を頼りにおりんが近づき、耳に口を寄せてささやきます。喜んだ長吉が「顔を見られたら恥ずかしいということか。それならすぐにでも連れ出そう」と一人合点しておりんの手を引き戸口をさぐると義兵衛が来ます。長吉は「義兵衛さん、渡すぞ。うまく頼む」とおりんと突き出します。
「よしまかせろ」とおりんを抱えあげ「器量に似合わぬ重さだ」と騒ぐ声を聞きつけて奥からお石が手燭を差し出します。その灯を力に五六が脇差を奪い取ります。「長吉、盗人が」「ほい」と驚き戸を閉め、砂を投げ込むと手燭の火に当たって消えます。その闇を頼りに、わが恋の相手ではない恋の重荷を軽々と抱えて足に任せて急ぎ逃げていくのでした。

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