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道修町(2) 

大阪市中央区道修町は薬の町なのですが、同時に文化の香りがします。
前回書いた谷崎潤一郎の

    「春琴抄」

は昭和8年(1933)に発表されました。
主人公は鵙屋(もずや)の娘の琴(こと)。幼くして失明した彼女の世話をしていたのが丁稚の佐助。彼は琴(春琴)の三味線の弟子にもなり、厳しい稽古をさせられます。そのうちに春琴は懐妊し、二人が関係を否定する中、佐助に似た子が生まれるのです。春琴の弟子に利太郎という男がいますが、これは春琴の美貌に惹かれて弟子になったろくでなし。利太郎は春琴に言い寄るのですが春琴は断り、あげくに稽古に際して利太郎にけがまで負わせてしまいます。その後、何者かが春琴に熱湯を浴びせて顔に大火傷を負わせるという事件がありました。春琴は顔を見られたくなくて佐助もそばに寄せなくなります。佐助はある日、針で自分の目を突いてわざと失明し、なおも春琴に仕えたのです。
船場のいとはんのお話ですが、春琴の生家として設定された鵙屋は

    道修町の薬種商

だったわけです。

「春琴抄」は文楽の舞台にも上げられ(鷲谷樗風脚色)、私も昭和61年に織大夫、団六、文雀、文昇(先代)らで拝見しました。

春琴抄
↑春琴抄の碑(菊原初子書。少彦名神社)

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船場のいとはんや奥様方には芸事や文芸にいそしむ人が多かったのではないのでしょうか。
道修町には

    高安病院

という立派な病院があったそうです。この病院で有名なのは、昭和13年にあの横綱双葉山(1912-1968)が満州巡業で赤痢になり(腸チフス、虫垂炎とも)、ここに入院したことです。そして翌昭和14年1月にまだ体調が戻らないのに出場し、連勝が69で途絶えたのでした。まだ26歳だった横綱は「未だ木鷄たりえず」と言った(電報で)そうですが、昔の若者は難しい言葉を知っていたのですね。たいしたものです。
実はこの入院時、双葉山を看病したのが小柴澄子さん。樟蔭女子専門学校を出た大阪・夕陽丘の方です。このあと彼女は双葉山と結婚することになるのです。
そしてこの高安病院の院長夫人は

    高安やす子(1883-1969)

さん。写真を見ましたが、大変な美貌。この人は与謝野晶子とも親交のあった歌人でもあり、歌集も出していらっしゃいます。四十代であの斉藤茂吉の「アララギ」に入会もされています。この人は大阪府立堂島高等女学校(のちに大手前女学校。現在府立大手前高校)の卒業生で、この学校の同窓会「金蘭会」の一員として金蘭会女学校(後に学校法人金蘭会学園)の設立にも関わったそうです。
彼女の詠んだ歌に

  現(うつ)し身に病を持ちて物多く
       感ずる性(さが)と汝(な)は生ひたちぬ

がありますが、これは彼女の三男国世(くによ)を詠んだものです。国世は喘息がひどかったのだそうです。この国世が後にリルケ研究者、京大教授、そして歌人(『塔』主宰)として知られる人です。私も実は国世先生にいくらか短歌を採ってもらったことがあります。
道修町、美貌、短歌といえばもうひとり

    茅野雅子(1880-1946)

を忘れるわけにはいかないのです。道修町の薬種問屋、増田宇兵衛商店(順血湯本舗)の次女。もちろん旧姓は増田。堂島女学校や相愛女学校を中退してのちに日本女子大学(東京都)に入り、明星派の歌人として活躍しました。ドイツ文学者の茅野蕭々に熱烈に求愛されて結婚した人です。写真を見ると、ほっそりたおやかな美人です。

男性では「金門五三桐」などの歌舞伎作者、初代並木五瓶がやはり道修町出身。
道修町は小西吉右衛門が薬種商を開いたのが「薬の町」の起こりとされますが、この小西家の縁者に「涼しさに四つ橋を四つ渡りけり」の

  小西来山(1654-1716)

がいます。ほとんど近松門左衛門(1653-1714)と同じ時代の人ですね。来山の実家は淡路町の薬種商小西左衛門家だったそうです。
近代になると、飛行器(「機」ではなく)発明に情熱を燃やした二宮忠八(1866ー1936)がいます、彼は愛媛八幡浜の生まれですが、道修町の大日本製薬(現大日本住友製薬)で立派な地位に昇った人でもあります。

ああ、道修町。あれこれ書いてしまいました。

武田
↑武田道修町ビル

小城
↑小城薬品

北垣
↑北垣薬品

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