ほんもの 

神戸市立博物館で「マウリッツハイス美術館展」が催されている期間、建物の外壁には

レンブラントの自画像
ハルスの「笑う少年」
フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」

を拡大したものが看板代わりに掲げられていました。
この前を通っただけで「市立博物館でレンブラントやフェルメールなどを観てきた」ということになるのかな、とふと思いました(笑)。
もちろんほんものと複製では意味が違いますが、今は色の再現もずいぶんきれいにできるようになりましたから、

    夜目、遠目、素人目

にはなかなか区別ができません。
館内で観た「真珠の耳飾りの少女」の放つオーラは格別でしたが、それでは精巧な複製をあそこに掲げられたら判別できるのかと言われたら、まるで自信がありません。

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しかしそれは当然のことで、写真の技術者さんたちはもとの色を復元するために必死になっていらっしゃるわけですからね。そして、複製画はかなりの価格で売られています。しかし、

    複製画があるから

ほんものは観なくてもいい、とは誰も言わないでしょう。実際ほんものの脇にそれを並べてみたらやはり違うのでしょうし、立体感にも違いはあるのかもしれません。ほんものを観ることはやはり重要だと私も思います。

文楽もプロの最高の技芸と裏方さんの最高の技術で味わってこそだと思います。そういうことのできる場所が本拠地であるべきなのでしょう。
大阪の国立文楽劇場は入れ物の大きさが気になるのですが、本来は世界で一番文楽を観るにふさわしい場所であるべきです。にもかかわらず、大阪市が妙な目で文楽をにらんでいるといういびつな状態では落ち着いて観られたものではありません。早く新しい芸術に理解のある市長が出現することを願います。
さて、私は長年文楽人形を使う素人グループを率いてきたのですが、これはもうひどいにせもの(笑)。
しかし、こういうにせものがあることによって、そしてそれが努力工夫してほんものに一歩でも近づこうとすることによって、ほんものがさらに輝くようであってくれればという思いもあります。

    素人山脈

があってこそひときわ高い峰である文楽が映えもし、栄えもするのだと思います。
素人が余計なことをするな、というのは正しくない。素人が玄人を脅かすようですらありたいのです。
以前、ある若手人形遣いさんが大学に来てくれたとき、足をなかなかうまく遣う学生がいまして、その人形遣いさんは「どうやったらあんなにうまく遣えるのか教えてほしい」と言っていました。もちろん謙遜なのですが、いくらかは彼を刺激したかもしれません。
ほんものとにせものが共存してこそほんものが輝く、ということがありそうです。

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