違った解釈、間違った解釈 

最後の授業は力を入れすぎるクセがあります。なんとかきれいにまとめてやろうとしすぎる傾向もあります。
ついついきれいごとや説教じみたことを言ってしまうのです。
ところが、学生はと言うと、専門の授業の試験が目前(あるいは今まさにその最中)ということもあって、あまり熱心に聞いてくれるとは限りません。
私の授業は試験はありません。ほとんどの学生はすでに

    単位は取れています

から、この時間は座っておればいい、くらいの感覚かもしれません。
そこをさらに惹きつけるような話をするのが

    プロフェッショナル

なのかもしれませんが、私にはなかなかできません。
文楽の太夫さんは、客席でいびきをかいている人がいても「ちょっとあんた、聴いてよ」とは言えず、淡々と語り続けられますが、やはりやりにくいでしょうね。
もちろん私の場合は授業ですから注意をすればいいのですが、この時期だけはつい見逃したくなります。こういうところがいつまでたってもダメなんです。

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彼女達とはほとんどもう教室では会いませんから、ついこれから大学生として学ぶためには・・と語ってしまいたくなるのです。私の授業は教養の文化や文学なのですが、

    スタディスキルズ

の授業という一面も肚に入れて話しています。
難しいことではありません。話を聴いて、自分がいかに消化して自分の考えを育むかということなのです。
行き着くところは、私を批判してくれればいいのです。たとえば、源氏物語の話をしたら、私なりの解釈を話します。しかし違った解釈をしてもいいのです。
ただ、

    間違った解釈

だけはしてはいけない。そこをしっかり言っておきたいのです。
本を読むときも、新聞やテレビのニュースを観るときも、それを真実だと思うのではなく、それはひとつの見方に過ぎないということを考えて欲しいわけです。
もうひとつはおとなの自覚の問題です。言葉遣いや字の丁寧さ、レポートや手紙の書き方などはすべて相手が読み、聞くのです。だから相手の立場を意識してもらいたいのです。
自分本位で何とかなってきた高校生までの日々。だからこそおとなの自覚を意識して欲しい。この大学の卒業生はおとなだ、と言われるようにしたい。「かわいい私からエレガントな私へ」。学生にはそう変化して欲しいと願っています。
そんなことを最終回に話すのですが、どうも彼女たちの頭には「一酸化炭素と二酸化炭素を足すと三酸化炭素になって」(浜村淳さんのネタです)ということが渦巻いているらしく、授業の有終の美はなかなか飾れません。

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