網島は好きだけど 

文楽四月(五月も)公演では近松門左衛門の

    心中天網島

が出ます。なんで4月に? という疑問はあちこちで聞きます。これは小春、つまり旧暦の十月のものだからです。錦秋公演が最適なのはいうまでもありません。小春を春に上演してどうするの? というわけですね。しかし、文楽劇場がそんなこともわからないはずはありませんから、秋には何か別の企画があって、批判覚悟で春に持ってきた、と今は解釈しています。秋の演目発表が楽しみです。
もっとも、新口村だって夏に上演されたこともありますし、冬に尼崎とか、いろいろあると思います。ただ、「夏祭」は夏に限りますし、「千本桜」や「新うすゆき」などはやはり春がいいな、とは思いますが。

これまでにも何度か書きましたが、現在上演されている『心中天網島』の「河庄」は原作とは違います。改作の『心中紙屋治兵衛』の「河庄」を使っているようで、おもしろいから、ということなのか、定着しています。
ただ、私はあの太兵衛と善六はあざとくてあまり好きではなく、特に端場(いわゆる「口三味線」)は何とも

    間延び

して、おもしろいと思ったことがないのです。咲大夫さんでしばしば聴きましたが、それでもおもしろくありませんでした。
何でもかんでも原作こそ最高、とは思わないのですが、「河庄」は原作のほうが絶対よいと考えています。
『心中紙屋治兵衛』では石町(こくまち)の坊主というのが出てくる「浮瀬(うかんせ)」の段があり、それを前提にしての「河庄」です。
さかし原作はまさにこの「河庄」から始まるので、緊張感もあります。太兵衛もチャリの要素は希薄。

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とはいえ、『網島』はやはり名作だと思います。
心中せざるを得ない状況に追い込まれ、決意したらすぐに実行、という二人を描くのではなく、冒頭ですでに心中は決まっており、それを周囲の人が苦しみながら 納めようとする、善人ばかりでもうまくいかない世の不条理を感じます。
「大和屋」の

    冷え冷えとした空気

が作品を象徴するようでまた好きなのです。
「名残の橋尽」は、ひとつひとつの橋を思い浮かべられた往時の大坂の人たちには我々以上の感懐があったかもしれない、と思います。
私は古典文学を読む時、作品を現代に引っ張り込まずに、むしろこちらから

    歩み寄る

ことを大事にしたいと思っています。そうすれば、作品の中に現代が必ず見えてくる。
なにがなんでも原作とはいわない、と申しましたが、基本的には原作で味わうのがやはりまず第一かな。特に『心中天網島』についてはそう感じています。

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コメント

もしかしたら・・・

今年のPARCO劇場40周年で、8月に「其礼成心中」の再演が予定されているから、その予習と言いますか、去年、「其礼成心中」を観た人たちを惹き付けるためなのかもしれないと、思ったりしちゃいました。
三谷ファンとしては今年も観に行きたいと思っております!

♪方寸生一さん

なるほど。ルーツはここだ、と。
新しいお客さんを引きつけることには熱心でけっこうですが、国立劇場本来の目的も考えて欲しいなとも。
この夏、再演だそうですが、どんなふうに変わっているでしょうか・・。

定着しているのは

「面白いから」とかいう以前に、「曲があるから」ではないでしょうか。お師匠さんのそのまたお師匠さん、そのまたお師匠さんが演っていて、曲がある。伝わっている。習った。

原作が残らなかったのだって、面白かろうが面白くなかろうが、「次々と新作を出すのが当たり前の時代に発表されたから」じゃないでしょうか。録画をしなかった(できなかった?)、テレビ草創期、生放送時代の番組が残っていないように。

いくらかは、運というものもあるんでしょう。

♪えるさん

曲というものからどんどん関心が薄れて衛いるものですからなんともいえませんが、曲こそ、というえるさんのお考えは大事な視点だろうと思います。
もはや私には分からないことなので、ぜひそういう観点から発言していただきたいです。

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