4月公演メモ(1) 

すっかり忘れていました。
4月公演のことをここに書いていませんでした。

『伽羅先代萩』
いつも思うのです。千松は子どもの格好をしていますが、おとななんだろうなと。
ただ、おとなは思っていてもなかなか言えないことがあり、千松は時としてそれを口にする。本音がポロリと出ることがある。いわば

    大人の代弁者

になっているように思います。
千松は哀れです。しかし、世の中は今も昔も千松だらけなのです。千松を見て「かわいそうな子ども」を感じるのも一つの見方でしょうが、私はやはり自分自身を観てしまいます。
彼は社会の中で孤立し、ついには社会に抹殺されてしまう。政岡はそれを見て慟哭する。千松は政岡の子であると同時に夫でもあるようです。
鶴喜代も千松も哀れですが、彼らを哀れなままにしておかねばならない立場の政岡はさらに孤独を深めることになります。人と交わりながらなおも感ずるところに孤独の本質があります。政岡は女たちの社会でひとりで生きています。かけがえのない、計り知れないほど重い2人の子という重い荷を背負いながら。彼女は人を恨んで言うのではなく、自分自身を

    「胴欲」

と言います。恨むのではなく、恨まれる立場の自分を見つめざるを得ない悲しみ。
しかし、彼女の「凝り固まりし鉄石心」は「女の愚に返」ることによって「伏し転び、死骸にひしと抱きつき前後不覚に嘆」くことになります。
女の愚、人の愚、孤独は時として愚によって解放されることもあるのだと思います。
それにしても三人の女たち、八汐は動き、政岡は耐え、沖の井は見つめる。それぞれに魅力的です。
和生さんの政岡は隙がありませんでした。泰然として動じず。動きは抑えながら人物像はくっきりしていました。へんな言い方ですが見せる政岡というよりも聴かせる政岡のような。
文司さんの八汐はもう少しおとなしいかと思ったのですが、いい意味で予想を裏切ってくれました。
勘弥さんの沖の井は前回もよかったのですが、何がよかったのか掴みきれませんでした。今回感じたのは、見つめ、疑い、判断する過程がきちんと時間を作っていたこと。沖の井の時間がありました。時間があると心の動きが見せると思います。沖の井は理知の人。
文司さんにせよ勘弥さんにせよ、しっかり動いて人物の性根を見せてくれるのは心強いです。
「床下」はひさしぶり。幸助、玉佳のお二方に華があるのが嬉しいです。玉佳さんは人形に同化するかのようで、これは昨年の定九郎でも感じたことです。あとは、そこから玉佳という人形遣いがふっと消えてしまう瞬間があることを願っています。

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『新版歌祭文』

冒頭の勘十郎さんのおみつ! はたきを使うとほこりが立ち、はたきは徐々に汚れていく。ほうきを使うとそこに塵が本当に集まっていくかのようだ。化粧する姿も段取りとして化粧しているのではなく、うきうきした気持ちの高ぶりが見える。終盤の切髪姿を見せたおみつは「最前からなに事も残らず聞いてをりました」と言いますが、これはもう観音の視点というべきではないでしょうか。彼女は出家姿になって野崎観音に同化してしまったように思います。
玉女さんは骨のある久作。小助を手荒にやり込める理をわきまえた硬骨の人。
玉志さんの小助は骨のない小物で久作と好対照。
簑助師匠は横の動きは少ないのですが、一途に思いを募らせるお染の熱い心がうかがえました。大店のお嬢様を超えて一人の恋娘が描かれました。これはもう恋の権化です。
簑二郎さんはこれまでこういう動きの少ない役の場合にありがちだった無駄が消えていたように思います。それだけに若い男の色気もほのみえました。
白太夫の首ってほんとうによくできていますね。泣くと顔がくしゃくしゃになるように見えました。
首と言うと、おかつの首はもう少し目力のあるものでもいいような気がしたのですが。

『釣女』

いつも思うのは「ほどほどの懸想」を狂言にした演目だな、と。紋壽さんの息切れが心配でした。私が見たときはどうも四人の舞が合いませんでした。中堅~若手だけで上演してもいい演目だと思いました。

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