紫式部日記を読む(続) 

今残されている『紫式部日記』は寛弘五年(1008)秋の記事に始まっています。しかし現実にはそれ以前の内容も含まれているとされ(厳密にはいつのことは特定できていない)、一番終わりのほうに残されているのです。また、この日記の冒頭以前にも記事があったことが想定されてもいます。
この年は藤原道長の娘、彰子(一条天皇の中宮)が皇子を産むのですが、その出産直前から書き起こされているのです。
当時の中宮の出産は内裏ではなく実家に戻って行われました。彰子も秋の初めの七月十六日に内裏を出て実家の

    土御門第

に戻りました。土御門第は今の京都御苑の大宮御所、仙洞御所あたりにあったのです。土御門大路と近衛大路に挟まれた南北二町という広大なお屋敷です。大内裏の東端の外側が大宮大路ですから、そこからでも1km以上あったようです。一条天皇は火災にしばしば遭った人で、正式の内裏に安住し続けてはいません。この当時は一条院と呼ばれる、大宮大路の東、一条大路の南のお屋敷に住んでいました。そこから彰子は実家に戻ってきたわけです。やはり1km以上の距離があります。
『紫式部日記』の冒頭辺りは、出産を待ちかねる貴族たちや女房の様子が生き生きと描かれています。彼女の同僚の女房たちも書きとめられています。
そして、九月十日、彰子は産気づいて(この日は生まれない)

    白い御帳台

に移ります。白いのは出産のためです。

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九月十一日の暁、中宮は北の廂(ひさし)の間に移ります。なぜ母屋で産まないのか、はっきりしたことはわかりませんが、この日のほかの記録を見てみますと

    日遊神

が内にいるという記載があります。その祟りを避けるために廂に移ったのだろうと考えられています。さすがに中宮も苦しみ、頭の頂の髪を少し削ぎます。出家の真似事のようなもので、これによって仏の加護を得ようというわけです。そして出産間際、

    物の怪

がさかんに妬み、騒ぎます。そしてついに午の時に

    空晴れて、朝日さし出でたる心地す

と書かれている通り、中宮は出産しました。安産であったのみならず男子だというので、一同は大喜びです。男子でなければ天皇になれません(女帝は平安時代にはありません)から、やはり期待されていたのです。
内裏からは刀も贈られ、へその緒は祖母に当たる藤原道長の妻倫子が切り(竹で切ります)、酉の時には湯殿の儀式が行われます。道長が抱いて、虎の頭を持つ女房、刀を持つ女房が前後を守ります。弓の弦をびんびんと鳴らす中、博士が『史記』「五帝本紀」を読みます。そんなことも記されています。

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