あまんじゃく論 

昨日、2013年8月2日は劇作家木下順二の生誕99年でした。
「瓜子姫とあまんじゃく」は来年、生誕100年の年に上演してもよかったかな、と思います。
しかし、来年も木下順二を上演してはいけないわけではありませんから、

    赤い陣羽織

を出してもよいわけてす。
木下順二は、研究者としてはシェークスピアからスタートしており、翻訳もしています。その一方、民話に関心が強く、著名な「夕鶴」「彦一ばなし」があり、「わらしべ長者」など、関連する書籍も出しています。
そしてラジオ放送劇として書いた「瓜子姫とあまんじゃく」を義太夫にして文楽で上演するようになったのです。
「瓜子姫とあまんじゃく」は私も何度も拝見しましたが、拝見するたびに想像力を掻き立てられる作品です。
今もってこの作品をどのように理解したらよいのかが分かりません。

    あまんじゃく論

というものがあればぜひ読みたいのですが、まだ探していません。
皆様はどのようにご覧になっているのかうかがいたいのです。
あまんじゃくは山に住んでいて人まねをするのですから、やまびこ、こだまの類とも考えられます。
山彦は山を擬人化したものでしょうから(「彦」は「姫」に対して男の子の意)、まさにそれはあまんじゃくであり、山父でもあります。あまんじゃくは山父の子でもあるように思えます。あるいは山と山父とあまんじゃくは三位一体。あまんじゃくは人の真似をし、山父は人の心をそのまま言い当てます。やまびこはヤッホーというとヤッホーと答えます。
杣の権六はかつて山父にでくわし、次から次へと自分の心を言い当てられて身動きが取れなくなってしまいます。
瓜子姫はあまんじゃくに出会って、これまた次々に自分の言葉を言い返され、あげくには縛られてやはり身動きがとれなくなってしまいます。
子供のころ、私の周辺でも同じことを言って相手を困らせる遊びのようなものがありました。あれはけっこういらいらするものです(笑)。

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権六は山父に出会うというピンチに陥り、どうしようもなかったのですが、彼がその時触っていた木の枝がれて山父に当たり山父は「人間というものはときどき

  思ってもおらんこと

をする」といって退散したのでした。
自然の脅威が人間の「思いもよらぬこと」によって脅威でなくなったのでした。人間が強いのではなく、ほんとうに偶然のようなものでした。
瓜子姫はあまんじゃくに連れ去られて柿の木に縛られ、あまんじゃくは瓜子姫の姿をして機を織ります。しかしでたらめな織り方をするので、瓜子姫は「そんだらふうではちがうがな」と思うのです。しかしそれを言いたくても口をふさがれているため叶いません。わずかに彼女の心を知っているのは、仲の良い

  とんび・からす・にわとり

でした。
じっさとばっさが帰宅したので、あまんじゃくはいたずらしてやろうと考えます。ところがそのとき、じっさもばっさも「思いもよらぬこと」を始めます。とんび・からす・にわとりの真似をしたのです。いや、真似をしたというよりも、とんびたちがじっさとばっさに憑いて「そんだらふうではちがうがな」と言わしめたように思えるのです。瓜子姫の思いを仲良しの動物たちがじっさとばっさに届け、それをあまんじゃくに言ったわけです。
山父が権六の意思にかかわらず、しかし確かに権六の手から弾け飛んだ木の枝に面食らったのと同じように、あまんじゃくは驚いてついものまねをしてしまいます。いいかえると正体を現してしまうのです。
そしてしりしっぽをつかまれたあまんじゃくはついに山へ逃げていきます。
権六と山父、瓜子姫とあまんじゃくはパラレルな関係にあるように思います。

そんなことを思っているのですが、まるで自信がありません。

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コメント

あまんじゃく

藤十郎様

私も、権六と山父、瓜子姫とあまんじゃくはパラレルな関係にあるように思いました。

そして、権六と山父(静)、瓜子姫とあまんじゃく(動)とも思いました。
権六と山父の場面は語り部から昔話を聞いているような世界で炎と権六と山父だけの世界で下が、三味線、太夫、人形の一体感を強烈に感じました。(初めて観たのにたいそうなとは自分で思いますが)

♪花かばさん

ありがとうございます。
子供にもわかりやすいお話です、という言い方をしますが、実は昔話は怖くて難解な面もあるかな、と。
山父の人形は、以前はあんなのではなかったのです。木の精(=木霊)のような格好をしていました。

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