戦争は終わった 

戦争ごっこの好きな高校の後輩がいました。
当時の最新戦闘機とか、兵器とか、そういうものにやたら詳しくて、同級生と机上で戦争の真似をして遊んでいるのです。机上の、というのは、要するに口だけで戦争をするわけです。

    何が楽しいのか・・

よくわからなかったのですが、本人は時間が経つにつれて(机上で戦争が拡大化するのでしょうか)興奮して声も大きくなっていました。遊びですから、どうぞお好きに、という感じでした。
私が子供の頃は、戦争を知っている大人たちがたくさんいたわけです。私の父もぎりぎり体験者です。ただ、父は戦争など嫌で、逃げ回っていたらしいです。さすがは我が親。
団塊の世代の人たちは

  戦争を知らない子供たち

の元祖のような存在でした。例えば北山修氏は昭和21年、加藤和彦氏は昭和22年の生まれです。
あの人たちが多感な少年時代に世界ではベトナム戦争もあり、反戦の歌も世界中でさかんに歌われ、彼らの多くは共感していたと思います。その一方、戦争の現実を知らないゆえに戦争だ、軍隊だと声高にいう人もいます。
ポスト団塊ともいうべき昭和20年代半ば生まれの人はそんな「お兄さん、お姉さんたち」を目の前にして育ったわけです。男の子はやはり戦争ごっこや戦闘機のプラモデルを作って遊んだ年代でしょう。
今の総理大臣はさらにそれより下。しかも、お坊っちゃん育ちで、言わば「おんばひがさ」で大きくなったような人とお見受けします。
そのこと自体は悪いことではありません。品のよい、サラブレッド政治家であることも、叩き上げにはないメリットはあるはずです。世間知らずの能天気もまた役に立つことはあるかも知れません。
しかし、それでも私はあの人の憲法観や戦争観には与することはできません。
おんばひがさといえば、石原ご老体もそうでしょうが、あの御仁にもほとほとあきれます。

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8月15日は敗戦の日ではなく、

    終戦の日

と呼び習わしています。敗戦の日ならまたリベンジするぞ、ということになるかもしれませんが、もうおしまいにしたのです、戦争は。その意味で私は「終戦の日」「終戦記念日」という呼び名に賛同します。
「国のために死ね」というのは戦死者を英雄視するのに便利な言葉ですが、現実は「国のために人を殺せ」「私は嫌だから、お前が行って殺せ」と政治家たちは言っているように思います。
「9条の改定が前提」という政治家がまず「憲法96条」を変えようと企てているようです。しかしそのような浅はかな政治家が浅はかに改訂しないように、憲法改訂の発議には国会議員の3分の2の賛成が必要だと、まさにその憲法が言っているわけです。断じて議員の過半数で発議できるよう改めるなどという横暴は許せない、というのが私の思いです。
国語の教科書に載っていた

  「ぼろぼろな駝鳥」(高村光太郎)

という詩があります。
「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ」という作者は「これはもう駝鳥ぢやない」と嘆き、「人間よ、もう止せ、こんな事は」と言いました。
直接は関係ないかもしれませんが、「何が面白くて人を殺すのだ」「これはもう人じゃない」「政治家よ、もう止せ、こんな事は」とさえ読めてしまいます。

何が楽しいのか、とは、あの「口だけ戦争ごっこ」の高校の後輩に対して思ったことですが、総理大臣にも与党の幹事長にも、そして小さな政党のご老体代表にも、私は同じことを感じます。
今日は「終戦」の日です。

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コメント

戦争を知らない政治家たち

たとえば元自民党・幹事長の野中広務氏は、「戦争だけはしちゃあいかん!」とはっきり言います。野中氏は、戦争中に肉親を亡くした経験から、心から戦争を憎んでいます。わたしは野中氏の政治思想に賛同しませんが、この点はすごいなと思います。

いまの総理や副総理、そして石原ご老人などは戦争の準備をしたくてたまらないように見受けます。もしかすると戦争をしたいのかとも思ってしまいます。

でも彼らの親族は、もしも戦争になっても危険な最前線に送られることもなく「特権階級」として過ごせるんだろうなと思います。古今東西、戦争でつらい思いをさせられるのは必ず庶民ですからね。

戦争は終わった

私の父も戦争に行くのが嫌で逃げて終戦に間に合ったらしいのですが、戦争が終わったと日本人の多くは思っているみたいですが、アメリカやヨーロッパの国では、未だ他国で戦争中です。
だからと云っては何ですが、従軍慰安婦発言のあの市長は平和ぼけの議員たちの一員なんだと思いました。
話は変わりますが、私の好きな詩人の「山乃口 獏」は、戦争や原爆に関しての詩を多く書いていますが、最近特に思い出す詩が「紙の上」です。何もできないもどかしさを感じてしまうのです。

♪やたけたの熊さん

私は政治、経済、外交、法律、それにもまして軍事などには疎いので偉そうなことは言えませんが、一番気になるのは3分の2を過半数にという96条の改訂が画策されていることなのです。
憲法を国会議員のわずか半分の賛成で発議されてはたまらないと思っているのです。
議論もせずに過半数を持つ政党の意思で国民に提示され、ちょっとしたムードで改訂されるようなことがあってよいのか、と。
憲法と言うのは「law」ではありませんから、他の法とは一線を画すべきだと考えています。

♪花かばさん

私を平和ボケと罵るであろう石原氏などは、戦争は終わったことにして日本だけが世界の不幸から目を背けるのか、という理屈なのかも知れませんが、どうにも鳴っとくがいきません。
私もまた「だだ だだ と叫んでいる」だけかもしれません。

Constitution

憲法はLawではなく、Constitutionなんですね! 恥ずかしながら、はじめて知りました。

Constitutionって、そもそも語源はなんなのでしょう? 英語に暗いというより真っ黒けですから(笑)、どなたかお教えくださいますように!

♪やたけたの熊さん

私も英語は真っ暗闇ですが、con=一緒に、stitute=組み立てる のようですね。
ということは、constitution of Japan というのは「日本の構造」「日本国というからだを組成するもの」のことでしょうか。となると、法というよりは国の体質を示すのが「憲法」なのでしょうね。

憲法

憲法の改訂は国民投票になりますが、「国民投票法」というのがあります。

これが結構曲者みたいです。投票した人の過半数で決まる。有権者数ではないそうです。
最低投票率制度もないそうです。
また、公務員や教育者は投票運動が制限されるそうです。
(Wiki読んだだけなので、本当は原文あたらないといけないのですが・・・)

ということは、国民投票になったら、憲法学者でも議論できないことがあるかも??と想像しちゃいますが・・・


9条もですが、基本的人権や、表現の自由も
守りたいものです。
いろいろ大切なことが決められているのですね。憲法。

♪あやりんさん

国民投票があるとして、投票率ってどれくらいになるものでしょうかね。よくて7割でしょうか。有権者1億人として、7千万人。その過半数はざっと3500万。
公務員や教育者の投票運動制限の理屈はわからなくもないですが、マスメディアはどうなんでしょう。教育者なんかよりはるかに影響力がありますが。

誰が誰を縛るのか

法律は国民を縛り、憲法は政治権力者を縛る。これを教えてくださったのは井上ひさしさん。

「現憲法は米国に押し付けられたもの」とよくいいますが、では国民に主権がない明治憲法は自然にできたの? そんなわけはありません。当時の明治政府が国民に「押し付けた」ものです。これを教えてくださったのは加藤周一さん。

いずれも直接教わったわけではありませんが、本を通じて教わりました。本ってほんとうにいいものですねぇ。

♪やたけたの熊さん

井上さんも加藤先生もいいことをおっしゃいます。
いろんな意見がありますから、それを自分で咀嚼して判断したいものです。大きな声に騙されるのは禁物ですね。

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