三輪を隠すか 

額田王の歌に

  三輪山をしかも隠すか
    雲だにも心あらなも
      隠さふべしや

があります。天智天皇が都を近江に移すことになり、大宮人たちが旧都を離れるに際して詠まれたものです。
「三輪山をそうやって隠すのか。せめて雲だけでも心があってほしい。隠してよいものか」と詠んでいます。三輪山はそれほどに大和、飛鳥の象徴的な山だったということです。山自体が三輪神社のご神体。たしかに

    神々しさ

を感じます。
『妹背山婦女庭訓』「金殿」の結末を見ていてあまり関係のないこの歌を思い出してしまいました。お三輪を隠してどうしようというのか。

今回は珍しく「井戸替」が出ました。冒頭から威勢よく男たちが働き、後半には酒と踊り。大した内容ではありませんが、祭とは違うものの、秋の初めの年中行事として、にぎやかで季節感があります。そして、求馬という男と彼を追う勢力のあること、その一方で彼を慕うお三輪がいることが知られ、苧環の意味も分かります。いわば

    端場の楽しみ

です。
なかなかいいものです。

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蘇我入鹿は巨悪です。生半可な悪ではありません。いつのまにか現れて、いつの間にかのしあがり、人々があっけにとられているうちに天皇の位にまで至ろうとする。誰がそんな横暴を許したのか。世の中が不安になると、こういう

  とんでもない人間

が現れることもあるのですね。実際は大した人物ではないのに、自分を大物に見せることに長けているわけです。こういう手合いは現代にもいるかもしれませんね。
そういう巨悪にはなかなか立ち向かう人がいません。権力をかさにきて横暴を繰り返しますし、取り巻きはおこぼれ狙いで逆らいません。自分に都合のよいように規則を決めたり、自分に逆らうものは理不尽に貶めたりします。
早くなんとか滅ぼさねばなりません。
そのために役に立つというか、犠牲にならねばならないのがお三輪でした。名もない町娘が巨悪を倒す決め手になる、しかし何の罪もない彼女は恋しい人と添うこともならず命を終えるのです。

    理不尽

です。なぜ巨悪をのさばらせたのか、彼女の知ったことではないのに。しかし、世の中は概してそんなもの。辛い目に遭うのは名もない庶民。巨悪とは独裁者であり、戦争であり。ひょっとすると原発も巨悪であるかもしれません。
私の記憶違いならお詫びしますが、文楽のある太夫さんが昨年の2月公演のときに脱原発のデモに参加されていました。そして、その太夫さんはその公演で「金殿」を語られました。
脱原発を訴えつつ、巨悪の犠牲になるお三輪を語る。なんの関係もなさそうですが、非力な庶民の手に負えないものを前にして、非力でも無力ではないことを示す行為のように感じたものでした。
かわいそうなお三輪の話ではなく、観客一人ひとりの身と心の話のように思います。
この時代だからこそ、巨悪がのさばりかねない時代だからこそ、お三輪の悲劇を生んではならない。
お三輪は亡くなりましたが、彼女の血は生きます。彼女自身は知ることはできませんが、その血が巨悪を倒します。
だから私は、最後の場面は、お三輪の亡骸を隠してしまうのではなく、本文通りに金輪五郎が背負って欲しいのです。
三輪山をしかも隠すか…。

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