藤原道長の信仰心 

藤原道長(966~1027)はなかなか信仰心の厚い人なのです。信仰のために、時には権力にものを言わせて無茶もしますが、基本的に浄土に向かいたいという気持ちが篤かったのだろうと思います。
彼は若いころから病弱で、頻繁に病気をしています。
そもそも彼の一家は若死にが多く、同母兄姉はすべて50年も生きていません。長兄道隆は43歳(数え年。以下同じ)、次兄道兼は35歳、長姉超子は29歳くらい、次姉詮子は40歳で亡くなっています。ですから62歳で亡くなった道長は長生きした方なのです。
それに対して妻の倫子は90歳の長命。この人は

    44歳で

最後の子を産むという体力の持ち主でした。
道長と倫子の間に生まれた娘の彰子は87歳、息子の頼通は83歳、教通は80歳まで生きていて、彼らはお母さんに似たのでしょうか。娘でも妍子は34歳、威子は37歳、嬉子は19歳で亡くなっていますが。当時は手におえない疫病があり、女性の場合は

    出産

がありますから、若くして亡くなることも多かったのですが、権力者といえども寿命ばかりはどうにもならなかったのですね。
そして弱かったからこそ、来世を願う気持ちも強まったのかもしれません。そもそも彼は兄がいますので権力の中枢に至ることはあまり期待できないだったのです。しかし兄たちがばたばたと倒れた結果、三十代で最高権力者となり、娘が天皇の子(男子)を産んだため盤石の権力体制を敷くことができたのです。

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この世で最高の力を持つと案外そういう人は来世というか浄土というか、そういう世界に赴くための準備をすることがあるようです。
道長は若いころに両親を亡くしており、三十代までにすべての同母の兄姉を失っていますから、権力の座に就くと、彼らの菩提を弔うことも熱心に行っています。
その表れが宇治市木幡にあった

    浄妙寺

建立でした。一族の墓のあった木幡がかなり荒れていたため、彼が大きな寺を建てたということです。京阪電鉄の木幡と六地蔵の間、今の木幡小学校のあたりです。
道長自身も木幡に葬られたと思われ、その墓の位置は浄妙寺のあったところの東側(現在は茶畑)ということもほぼわかっています。
道長はもちろん京洛に住まいを持っていたわけですが、たとえば奈良方面に行くときには中宿りになる宇治に別荘を設け、西の方に行く場合にはその中宿りになる鬘に別荘を設け、という具合に、あちこちの要の地点に別荘を持っていました。宇治の別荘とは、のちに息子の頼通によって

    平等院

にされるあの場所です。
この浄妙寺が道長の信仰心の表れの最初のポイントということになります。

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