藤原道長の信仰心(続) 

世界文化遺産に登録された紀伊山地の霊場と参詣道の一画を占めるのが

    金峯山

です。金峯山(きんぷせん)という山ではなく、あの辺りの山の総称のようなものです。『義経千本桜』でおなじみの蔵王堂など、さまざまな旧跡のある吉野ですね。
下市には弥助さんが今もあり、少し離れたところにはいがみの権太の墓があり、妹山背山も遠からず、文楽ファンにはたまらない地域です。この話は以前にも書きました。
この金峯山に参詣することは平安時代の貴族にとっても重要なことでした。
藤原道長も42歳の寛弘四年(1007)秋に敢行しています。
彼はなぜ金峯山 を目指したのか?
ひとつには、40歳を過ぎて初老を迎え、いつまでも長くはない人生を実感したことがあると思います。
そしてもうひとつ、中宮となっている娘が20歳になり、いくらなんでもそろそろ天皇の子、それも願わくは男子を生んでほしいと祈願したいとの思いがあったのだろうと考えられます。こうなると、未来を願う心とともに

    現世利益

を意識してのことと思われます。
彼も生身の人間ということです。

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この翌年、めでたくも道長の娘は皇子(敦成親王)を産み、それが後に後一条天皇になるのです。さらにその翌年にはもう一人の皇子(敦良親王)も生まれ、この子は後に後朱雀天皇になります。
信心のおかげ、という美談にはなりますが、道長はこの後一条天皇の即位の時はかなり陰湿なこともしています。
当時の天皇は一条~三条~後一条~後朱雀と続くのです。
一条天皇はわずか31歳で死に瀕し、亡くなる直前にその時東宮だった居貞親王(なんと、その時すでに35歳でした)に位を譲ります。これが

    三条天皇

です。その時、新たな東宮として一条天皇の第一皇子である敦康親王(13歳。道長の兄の孫)がふさわしいという声があったのですが、道長は我が孫である第二皇子の敦成親王(4歳)を強引に立ててしまいます。さらに数年後、三条天皇が眼病に苦しむようになるとしきりに退位を勧めて、ついにわずか9歳の敦成親王を天皇にしてしまうのです。ただ、三条天皇もなかなかしたたかで、位を譲るかわりに次の東宮には自分の子の敦明親王(23歳)を立てることを道長に約束させ、それを実現します。天皇が9歳、東宮が23歳ですよ。
三条天皇と言うと「心にもあらで 憂き世に永らへば 恋しかるべき夜半の月かな」と詠んだ人ですが、こういう状況の人だったのですね。

しかも三条天皇が翌年に亡くなると、東宮にもその位を自主的に降りるように追い詰めてしまいます。そしてやはり孫の敦良親王を東宮にするのです。
この

    罰当たりめ!

といいたくなります。
道長の信仰心の篤さは否定できませんが、一方で彼はかなり勝手なこともする人物でした。

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