藤原道長の信仰心(続々) 

病弱だった道長は年をとるにつれて焦りがあったように思います。
当時、三后と呼ばれた位があります。

  太皇太后
  皇太后
  皇后

の三つです。例えば現在の天皇の后が皇后、先代の皇后が皇太后、先々代の皇后が太皇太后というような場合です。
道長とその正妻格であった倫子の間にできた娘は四人います。彰子、妍子、威子、嬉子です。
まず道長は彰子を一条天皇の中宮(本来は皇后に同じ)にしました。次に妍子を三条天皇の女御から中宮にします。そして一条天皇は亡くなり、三条天皇も位を降りました。となると、彰子は太皇太后、妍子は皇太后になります。次の天皇は道長の孫の後一条天皇で、即位した時は9歳でしたからいくらなんでもまだ奥さんはいません。ところが、なんと2年後の後一条天皇11歳の時に奥さんができたのです! そして、驚くなかれ、それは道長の三女の威子でした(つまり叔母さんと甥の結婚)。まだまだ驚くことがあるてや。11歳の天皇に対して威子は20歳だったのです。言ってみれば大学1年生の女の子と小学4年生の男の子との結婚です。
そして彼女はその年の内に中宮になります。つまりここで太皇太后、皇太后、皇后のすべてが道長の娘という事態が生じたわけです。これが世に言う

    一家三后

です。このときに道長(53歳)が詠んだ歌が有名な

  この世をばわが世とぞ思ふ
   望月のかけたることも
        なしと思へば

なのです。
ちなみに、末娘の嬉子は後一条天皇の弟の東宮敦良親王と結婚(二歳しか違いませんが、これも叔母と甥です)、後に後冷泉天皇になる男子を産みます。彼女もゆくゆくは中宮になるべきところでしたが、産後がよくなく、早世します。

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道長は後一条天皇の摂政になって、すぐにその職を息子の頼通に譲ります。しかし文楽の人形遣いさんよろしく、うしろで操っているのですね。

道長は54歳の時に出家しています。
55歳の時には自邸の東側に中河御堂(無量寿院)を造営しており、これがのちに彼が「御堂関白」と言われる所以です(ただし関白にはなっていない)。この御堂は道長57歳の時に法成寺と改められます。
今はもう何も残っていませんが、壮麗な寺院だったようです。復元模型は京都市歴史資料館(上京区寺町荒神口下る)にあります。

最後の最後まで信仰心があったというか、そのために莫大な費用もかけた道長でした。信仰心というより

    信仰の野心

といいたくなるようなすさまじさです。
晩年の道長は悲しかったのです。道長60歳の年に末娘の嬉子が出産のあと19歳で亡くなります。その二年後には息子の顕信(母は源明子)が34歳で、同じ年に三条天皇の中宮であった娘の妍子(母は源倫子)が同じく34歳で亡くなります。
子供たちを相次いで失った道長も体調は悪く、がぶがぶと水を飲んでいたといわれます。

    糖尿病

だったといわれ、目も見にくくなっていたようです。
そして顕信や妍子が亡くなったその年の12月4日に彼もまた生涯を終えます。
その時は法成寺の阿弥陀堂で枕を北にして西を向いて五色の糸を指に結び九体の阿弥陀如来像とつながったまま息を引き取ったと『栄花物語』はいうのですが、かなり美化されているようにも思えます。

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