新聞記事 

懐古趣味はあまりないのですが、最近の新聞記事は何とかならないものかと思うことがあります。
典型的なのが文化欄。まず

    文章として

すばらしい、と思うものが少ないのです。記者だけでなく、作家などの文筆家の書くものにしても。
その背景には「わかりやすいことはいいこと」という呪文のような束縛があるように思うのです。それは一面では正しいのかもしれませんが、じっくり読もうという気などまるで起こらないのです。
中学生でも読めるような新聞というのも合言葉のようになっていると思うのですが、中学生が楽々読めるのではなく、中学生なら

    「ちょっと頑張れば

読める」という程度の文章にならないものかな、と感じます。この場合の「頑張る」とは親に意味を尋ねるとか辞書を引いてみるとか、そういう工夫をすることです。
今はレトリックなんてあまり使ってはいけないのでしょうか。
歯ごたえがあってこそ、あるいはピリッとわさびが利いてこそおもしろいように思うのですが、そんな事を考える人が減ってきているのでしょうか。

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文章に格調を求めることはまんざら悪くないと思うのです。ちょっとしたニュースならネットで読めば済みます。じっくり読ませてくれるものをこそ期待したいのですす。
スポーツ欄の文章などはいわゆる

    スポーツ新聞

のまねをしているようなタッチが多くなっていると思います。スポーツ新聞は電車でさっと読んでゴミ箱行きという場合も多く、また、一部売りが主体でしょうから、写真や見出しで目立つようにしなければならないという宿命があります。一般紙の場合、月ぎめ講読が多く、しかもスポーツ欄は一面にはありません。
社説や記者の意見文も思い付きが多いように感じています。普段から本気で(政治なら政治について)議論しているのだろうかと思いたくなることもあります。

    「人気者」の発言

はくだらないことでも取り上げるのに、肝腎なことは伝えない、ということもしばしば感じます。権力者におもねるなんて、まったくもって困ったものです。
新聞記者が無能になった、とは言いません。しかしなんだか筋が通っていないというか、骨が細いというか、肝っ玉が小さいというか。
芸能欄の舞台評も減っているのではないでしょうか。
ツイッターの後追い記事もいただけません。あの人がツイッターでこう言っていた、という程度の記事は必要なこともあるでしょうが、それを後追いするだけのものもあって、なさけないです。
私もかつて就こうかと思ったことのある仕事です。記者の皆さん、ますます努力なさってください。

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コメント

社会の木鐸

親が購読していた大新聞Aは、ものごころがつくころから目の前にありました。新聞をまともに読むようになったのは中学3年くらいからでしょうか。本多勝一さんのルポに胸躍らせました。本多さんとペアを組んだ藤木高嶺さんの写真にも惹きつけられました。

松井やより、岩垂弘・・・記者の個人名が出てきます。いまよりずっと、考えさせられる記事が多かったように思います。なんで、こんなにつまらない新聞になってしまたんでしょうねぇ。読みたい記事が少なすぎるのです。

A紙からM紙に替えたこともありましたが、M紙もなあ。

その点、東京新聞はまだずっとマシだと思います。それと琉球新報、沖縄タイムス。この2紙を読むと、新聞はやっぱり「社会の木鐸」でなければと思うのです。

♪やたけたの熊さん

沖縄や東京の新聞を読むわけにもいかず、ですね。
テレビはもちろん、新聞までがバラエティ番組化しています。
わかりやすくておもしろい、でしょうか。
この程度なら、私でも書けるよ、と言いたくなるような(厚かましいですが)こともあるのです。

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