七代目団十郎の追放
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市川團十郎の話を時々書いています。
七代目團十郎(1791~1859)は歌舞伎十八番(「歌舞妓狂言組十八番」)を制定したということで有名で、團十郎の中でもわりあいによく記憶されている人だと思います。
この人は五代目團十郎の娘の子、つまり孫だったのですが、六代目の養子になっています。ところがこの六代目は22歳で亡くなり、七代目はわずか10歳で團十郎を襲名したのでした(六代目も13歳で團十郎襲名)。
私は歌舞伎の歴史はあまりよくわかりませんので、来歴や演技など詳しいことは書きませんが、この人物が
天保の改革
のときに受けた仕打ちについてはどうしても気になるのです。
高校の日本史の時間にこの「改革」については習いましたが、質素倹約を奨励した改革だったという教わり方をしたような気がします。たしかに、天保の大飢饉などがあって世の中は不穏になっていました。そこで老中の
水野忠邦
は反対を押し切って「綱紀粛正」「奢侈の禁止」を命じ、幕府内のみならず、時の町奉行に指示して江戸市民にも徹底させたのでした。ちなみに、この時の北町奉行が遠山の金さん(遠山景元)です。
趣旨は分からないわけではありませんし、過度の奢侈がよくないことにはむしろ賛同するのですが、こういう場合におかみはしばしば見せしめのように芝居を槍玉に挙げるのですね。
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ほとんど八つ当たりと言いたくなるような仕打ちで、七代目市川團十郎(すでに團十郎の名は息子に譲って、この時は市川海老蔵になっていました)は江戸南町奉行所に逮捕されます。
この時の南町奉行は
鳥居耀蔵
で、前任者の矢部定謙を失脚させてその地位に就いた人です。遠山の金さんが市民の味方ならこちらは老中腹心で悪役ですね。「妖怪」とすら言われた人物です。
このお奉行に目をつけられたのが七代目。生活が奢侈である、舞台で本物の甲冑を用いるなどぜいたくである、というような理由だったそうですが、なんだかこじつけっぽいです。
結局團十郎は江戸十里四方所払いになります。
世の中不景気で苦しい人がいるときに
「ぜいたくは敵だ」
というとそれが錦の御旗のようになって、文化を弾圧する。理屈なんて簡単にこじつけられるわけです。
こういうのって、どこかで聞いた話に似てるよなぁ、と思ってしまいます。さすがに現代では冤罪で逮捕することはできませんが、劇場に空席があるからそれは人気がないのだ、それを満席にすることが文化振興だと言い張って、補助金を観客の数によって決めるなどという変なことをするかたがありましたよね。
七代目団十郎はその後地方を回ったりしますが、息子の八代目が大坂でなぞの自殺を遂げるというできごともあり、晩年は不幸だったのかもしれません。
しかし子だくさんだった七代目には河原崎権之助に養子にやっていた五男坊がいました。これがあの劇聖とさえ呼ばれる九代目團十郎です。
- [2014/02/16 00:00]
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