銀行員 

「六代目」というと私の場合はやはり笑福亭松鶴の名を思い出します。
しかしそんな私でさえ「九代目」というと

    市川團十郎(1838~1903)

になります。
七代目の五男。七代目は子だくさんであったため、五男の秀(ひでし)は河原崎権之助の養子になりました。そして河原崎長十郎から河原崎権十郎、養父の名跡権之助を継いだ後三升から九代目團十郎を継ぎました。権十郎時代に実兄の八代目團十郎が自殺し、やがて海老蔵を名乗っていた七代目も亡くなり、團十郎の名はしばらく途絶えたのですね。彼が九代目となったのは37歳の時だったそうです。すでに世の中は明治と年号が改まり、都も京から東に移っていました。
この人は父親と違って男の子に恵まれなかったのです。それで五代目市川新蔵を養子にして将来十代目を継がせることにしていたようですが、この新蔵は若くして亡くなってしまいます。一方で九代目は有望な役者を娘婿にして養子にして後継者にする、ということはしなかったのです。娘は好きな男と結婚してよいという方針で、長女は

    銀行員

と恋愛結婚するのです。銀行員といえば固い仕事の代表のようなもので、役者さんとはずいぶん違うイメージですが、この人は文化も愛した人で、九代目は養子にして堀越の姓を継がせます。
ところがこの人はあっと驚く転身をします。

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なんと、三十歳を目前にして歌舞伎役者になると言い出したのです。ど素人です。
それで、最初は上方などで修業をさせられ、35歳にして市川三升を襲名します。
この人は書画骨董にも造詣が深く、これまでの役者とは一風違った独特な存在であったようで、役者としての成果はともかく、九代目も尽力した歌舞伎界の社会的地位の向上をさらに充実させたそうです。
そして、興味深いのは、この人と山梨との関わりです。昭和七年に山梨の旧家である石原家から「武田氏に仕えていた堀越十郎が下総幡谷に移り、その孫の重蔵が江戸に出て、さらにその子が初代團十郎となった」という古文書を見せられ、それを譲り受けたということです。
いかにもインテリらしいエピソードで、この結果堀越家では市川團十郎の発祥の地を山梨県

    市川三郷町

に定めて昭和59年には当時の十代目海老蔵(十二代目團十郎)の撰文による碑が当地の歌舞伎公園内の文化資料館の庭に建設されたのです。
年を取ってから役者になっただけにそちらの面では成果はあまり大きくなかったにせよ、こういう方面での三升の業績はやはり彼の文人らしい素質がものを言ったのではないかと思います。
そして三升は昭和31年に亡くなると、

    十代目市川團十郎

を追贈されたのです。

先日の雪で山梨県は大変でした。
團十郎ゆかりの地はどうだったのでしょうか。

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