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古地図 

必要があって、江戸の古地図を眺める日が続きました。
目的は本所あたりにあったのです。本所といっても、私が見たのは幕末のもので、吉良上野介というお屋敷はありません。
江戸城からはかなり距離はありますが、いろいろなお屋敷があります。ほとんどは下屋敷ですが、中には津軽家のような上屋敷もあります。今の江戸東京博物館、両国国技館のあたりは

    御竹蔵

でした。もともと資材保管施設(後年米蔵になる)の御竹蔵は竪川の近く、あの土屋主税や本多孫太郎、そしてのちに吉良上野介屋敷となるあたりにあったようですが、それが今の国技館あたりに移されたのですね。
幕末も土屋家や本多家はそのまま。吉良家は松坂町になります。「目指すは本所松坂町」などといいますが、お屋敷のあるときは「松坂町」という名はありませんから、あれは芝居や講談の「うそ」ということです。でも聞くぶんには調子がいいですよね。
横川の東に行くと徐々に「田」の文字が目立つようになります。やはり城から離れるほどに田舎になっていきます。
私はこのあたりは結構歩いたのです。一時期は東京に行くと必ずと言ってよいほど上野と本所界隈(両国、錦糸町あたり)を歩いていました。もとは南割下水だったところも今は道路になっていますが、ここはあまり歩かなかったかな。いずれにせよ、土地勘を身につけるまでには至りませんでした。今からでも、一年、いや一か月でいいから住みたいです。
けっこう目立つのが法恩寺、霊山寺、本法寺と三つ並んだ寺。今でも墨田区太平、横川の地名になるところにこれらのお寺は並んでいます。実は今回古地図を見たのはこの

    法恩寺

のロケーション知りたさでした。
位置は現在の地図でもわかるわけですが、やはり昔のロケーションは古地図を見るに限ります。

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それがわかればもうやめておけばいいのに、いろいろ見たくなるのです。田村右京大夫の屋敷を眺めたり、赤穂浪人たちの歩いた道をたどったり。
彼らが歩いた道は回向院からずっと南へ行って今の芭蕉記念館のあたりをさらに南、永代橋を渡って鉄砲洲、聖路加病院、築地本願寺、新橋演舞場あたりを経て汐留橋。このあと、私の父が住んでいた芝のあたりを通ります。その道はほんとうに、父の住まい(赤穂浪人が渡った

    金杉橋

の少し西)のすぐ近くで、私も嬉しそうに歩き回りました。あとはもうひたすら泉岳寺へっていう感じでした。泉岳寺は大石が切腹した細川越中守(港区高輪)の下屋敷もさほど遠くはありません。それも古地図でしっかり見て楽しんでいました。
赤穂浪人のお預けになった邸はほかに水野監物(今は商店街の一画でじつにつまらない・・笑)、松平隠岐(今はイタリア大使館)、毛利甲斐(六本木ヒルズの毛利庭園)の屋敷でしたが、すべて今の港区ですので、ちょこちょこっと制覇しました。
ついでに父の屋敷跡(笑)を探してみると、古地図では

    増上寺

の学寮の一画でした。
今でも増上寺は大きな寺ですが、かつてはもっと規模が大きかったのです。このあたり土地勘はできていますので、古地図と頭の中の今の地図を照らし合わせると増上寺の大きさが実感としてよくわかります。
国立劇場は松平兵部大夫屋敷跡でいいのかな。
いうやはや、こんなことをしている場合じゃないのですが、古地図は面白いです。

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コメント

古地図

私の持っているのは製本されたもので、見開きで左側が現代右側が古地図で比較できるもので便利です。私が行った東京支社は増上寺近くで赤穂浪士が歩いた通り沿いにありますので、藤十郎さんの父上の家にすごく近いですね。
私も機会があればまた歩きたいです。

♪花かばさん

それは便利ですね。私も古地図を持って歩きたいです。
増上寺の近くですか。では本当にすぐそばです。父の住んでいたのは住所としては港区芝公園でした。

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