寺子屋 

以前は自分のことを

    学者のはしくれ

くらいにはなれるのではないかと自負していたことがあるのですが、さすがにここに至ってはもうそんな大胆なことは思いません。
学者の頭脳と勤勉さは私にはありません。やはりあれはいくらかの才能と勤勉さが大事。才能がなく勤勉でないなら学者にはなれません。
というと自虐的ですが、私には教える才能だけはあったと自負もしいますので、それほど謙遜しているつもりはありません。
「教える」というのは

    「押し売る」

のとは違うのです。ところが、若いころは知識を押し売りするように子供たちになすりつけようとするだけでした。それでなんとなく一人前の教師になったような気がしていました。子供と比べたら自分の方が知識があるのは当たり前です。
それなのに、そのことを自慢げに「押し売り」していた自分を思い出します。
先月、中学校で15年間も教員免許なしで(大学も卒業せずに)教えていたという人がいたと話題になりました。そんなことができるのか? と言いたくなりますが、まあできるでしょうね。私だって、大学院の時に予備校(高校1年生対象)で英語を教えていましたもん(笑)。あのときの生徒さん、すみませんでした。
無免許教師はもちろんいけません。しかし現実を見ると免許を持っているからと言っていい教師とは限りません。私は高校教諭の免許を持っていますが、かなりいい加減なのです。青年心理とか教育心理という科目が必修でしたが、夜間に行われた(私の大学には経済学部に二部がありました)集中講義で半分寝ながら単位だけをもらった感じでした。教育法規なんて採用試験の時に頭に詰め込むだけで、もう何も覚えていません。
それでも免許は持っていますし、大学ではありますが実際に教えています。いい加減な話です。

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ただ、自分では教えることについてある程度の年数が経った時にコツのようなものを会得したように思うのです。今でもうまくはありませんが、以前に比べたら格段の差があると自負しています。
そのコツを説明することはできません。自分で体得するものですから。文楽の人形遣いさんが、あるとき、「あ、これでいいんじゃないか」と悟ることがあるとうかがったことがあります。そんな感じです。
というわけで、学者としてはもうさっぱりダメですが、教員としては

    1.5流

くらいにまでは達したのではないかと思っています。
本来は学者を目指しながら、今は食らうべきために敬語の使い方などを教えている。これって、教員というよりも

    寺子屋の師匠

に近いかもしれません。『菅原伝授手習鑑』の武部源蔵は書道の名人のはずですが、芹生の里で子供相手に手習いを教えている。鬱屈した思いもあっただろうなと思います。
私は源蔵のように一流の腕を持ちませんからまだしも鬱屈は少なくて済みますが、ほんの少し彼の気持ちがわかるような気もします。

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