名所江戸百景~築地界隈 

明暦の大火(1657年)は江戸の町をずいぶん変えたようです。その一例が築地。元は海であったところを埋め立てて武家屋敷が多数移ってきました。その中に赤穂浅野家もあり、鉄砲洲に上屋敷(現在聖路加病院)が置かれ、後に内匠頭長矩となる人もここで生まれています。
日本橋を出た東海道が京橋から新橋に至るまでの銀座を含む新両替町や尾張町などは大火以前からありました。この地域の北の端は外堀から京橋川に入るところに架かる比丘尼橋。『名所江戸百景』には第百十四景「びくにはし雪中」があります。「比丘尼」は私娼のことで、このあたりにいたのですね。

名所江戸百景114
↑びくにはし雪中

左手前に大きく「山くじら」の看板。猪鍋の店で、尾張屋といったそうです。向かい側には「○やき 十三里」。芋の丸焼き、要するに焼き芋ですね。栗(九里)より(四里)うまい十三里。八里半とも言いました(栗=九里に近いというしゃれ)。この店の背後は外堀です。冬景色に猪鍋や焼き芋、そして中央にはおでん屋かとも言われる人物が橋にさしかかるところです。寒さの中の暖かいものですね。遠景の火の見櫓も真っ白です(でも、お七は上っていません・・笑)。
第七十八景「鉄砲洲築地門跡」は秋の風景で雁が飛んでいます。

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↑鉄砲洲築地門跡

京の西本願寺の別院が浅草にありましたが、明暦の大火で焼失。そこで築地に建てられたのが

    築地本願寺

です。現在は天竺様式の建物ですが、当時は和様。大きな屋根は灯台代わりに海からもよく見えたようです。この絵はまさに舟からの視点。広重はこの屋根を「霞がせき」「金杉橋芝浦」「芝愛宕山」にも点景として描き込んでいます。

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大坂の佃村の漁師が徳川家康に呼び寄せられて江戸で漁業をおこない、彼らは日本橋の魚河岸から移って自分たちの造成した島で活動しました。これが佃島で、佃煮の名の由来にもなります。彼らは故郷の

    住吉神社

を勧請して住吉社を建てます。ここで六月二十八日から翌日にかけて祭がおこなわれました。第五十五景「佃しま住吉の祭」です。

名所江戸百景055
↑佃しま住吉の祭

真ん中に幟。「住吉大明神 佃島氏子中」と見えます。小さく「安政四丁巳(1857)六月吉日」「整軒宮玄魚 拝書」とあります。玄魚は広重とも親しかったそうです。この幟は現存するともいわれていますが、実際はどうもそうではなさそうです。その向こうには、大勢の人が神輿の周りに集まっています。大坂の住吉といえば松。ここにも松が神輿を覆うように描かれています。 

第七十七景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」。鉄砲洲の北東端に湊神社がありました。京橋川が隅田川に流れ込むところです。

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鉄砲洲稲荷橋湊神社

古地図には

    「浪ヨケイナリ」(浪避け稲荷)

とも記されています。左側の赤い塀の中がそれです。秋の風景ですが、ツバメの姿も見えます。舟には上方からの下りものでしょうか、稲荷橋をくぐって河岸に運ばれていくようです。隅田川から西の方を見た視点ですから、遠景には富士山。これも大きく描かれています。

もうひとつ、第四景「永代橋佃しま」は春の夜。

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↑永代橋佃しま

永代橋はご存じ赤穂の四十七士が泉岳寺に向かうために渡った橋です。広重は橋を渡る人ではなく、橋脚とその間から見える漁火を捉えました。「月も朧に白魚の篝も霞む春の空」は三人吉三のお嬢吉三のせりふですが、この絵はまさにその白魚漁の様子です。上弦の月が見下ろす佃島で人は描かれずに漁火が揺れるばかり。冬十一月から春三月までの夜おこなわれた白魚漁は冬から春の風物詩だったようです。

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