名所江戸百景~高輪方面 

東京駅から適度に離れているとはいえ、品川に新幹線の駅ができるとは思いませんでした。関西から眺めているだけだと、こんなもの作ってどうするのかと思いましたが、いざ利用すると確かに便利ですね。
芝の金杉橋から東海道(第一京浜)を上り、金杉通、芝、芝田町あたりは街道の両側に町がありました。ところがその先、今の都営浅草線泉岳寺駅あたりからは街道は海岸沿いでした。つまりJR品川駅の位置はもともと海の中で、明治時代の品川駅も海辺でした。旧高松宮邸(高輪皇族邸)あたりが細川越中守中屋敷であったことはよく知られています。もちろん、大石内蔵助最期の地だからです。内蔵助ら17人がここに預けられて切腹したのでした。邸内にあった椎の木は今も残り、私も見物に行きました。泉岳寺はすぐそばです。前述のように、東海道は海沿いになりますが、この陸地側は車町といって、上方から下って増上寺安国殿などの建立に携わった牛持ち人足の住んだところだそうです。それで「うし町」ともいいました。
『名所江戸百景』第八十一景「高輪うしまち」はそこを描いたものです。

名所江戸百景081
↑高輪うしまち

右手前に車。これは町の象徴のようなものでしょう。スイカが食い散らかされており、犬がわらじの紐をくわえています。誰が食べたのか、誰が履いていたのかわからない残骸が描かれるだけで、人物は見えません。左のはるかかなたに見えるのは房総半島になるでしょう。右側の海に散見する岩場は御台場。砲台場ですね。この絵が描かれたのはペルリが来たあとですからこんなものができていました。品川のお台場は第百八景「芝うらの風景」にもありました。車の描く弧と平行するような形で虹が描かれています。スイカの食べかすにせよ虹にせよ、夕方近くなのだろうと思わせます。スイカを食べていたら夕立が来たので捨てて家に入った人がいた、という状況なのかもしれません。

浅草線泉岳寺の駅を出てだらだらと坂道を歩くと前述の細川越中守中屋敷のほうに行きますが、途中、伊皿子の交差点を北、いわゆる聖坂を行くと、亀塚公園(土岐家屋敷跡)や実相寺に出ます。このあたりは月の名所で、「月の岬」といわれたそうです。三田4丁目になります。これが一般に「月の岬」とされるところなのですが、広重の描く第八十二景「月の岬」はここではないといわれています。

名所江戸百景082
↑月の岬

理由は、広重自身が『絵本江戸土産』の中に描く「月の岬」について「東南は海面」と記し、「八ツ山」という書き込みもしているからです。「八ツ山(谷ツ山)」は車町(うし町)からさらに東海道を上り(つまり南下する)、品川駅の近くをもう少し上ったあたりにありました。たしかに南東側は街道を挟んで海です。そこでこの第八十二景もこの八ツ山あたりを指すのだろうといわれているのです。ただ、それにしてはこのあたりにこんな立派な料亭のようなところがあったのか、いささか疑問が残ります。海が見晴らせる二階の座敷。左端の障子に簪を飾る遊女らしき女性が映っていて、着物の裾がのぞいています。右端には男性が所在なげに煙管をくわえています。月を見て酒を飲むのもそろそろ飽きた、というので、遊女は何かの準備をしているのでしょうか。海には満月、雁が連ね、いかにも中秋の名月の趣です。左右に離れた男女がけだるい空気も漂わせて秋=飽きの掛詞すら思い出してしまうのですが考えすぎでしょうか。

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第八十三景「品川すさき」は八ツ山をさらに東南方向に行ったところ。

名所江戸百景083
↑品川すさき

八ツ山を過ぎてしばらくすると海側に稲荷社があって、そのあたりから東海道を挟む形で町が続きます。洲崎はさらに海側に出っ張ったところで、この絵に見えている弁天社はその北西側にありました。右奥のほうに御台場が見えますが、これは御殿山の土を削って作ったものだそうです。左奥の陸地は東海道が弧を描くようになっていますので高輪から芝の方面です。あはり雁が飛ぶ秋の風景です。見落としてはいけないのが左手前にある「土蔵相模」。桜田門外の変を起こした水戸の浪士が襲撃前夜ここで最後の宴を張ったという妓楼です。また、高杉晋作や伊藤俊輔(博文)らもここで密議をおこなったそうです。相模屋なのですが、外回りが土蔵造りだったので通称「土蔵相模」といっています。

たびたび出てくる品川の「御台場」ですが、品川御殿山の土を削って造ったそうで、当然御殿山は形が変わってしまいます。その変わり果てた姿を描いたのが第二十八景「品川御殿やま」です。

名所江戸百景028
↑品川御殿やま

ここは桜の名所。古地図にも「櫻ノ名所ナリ」とわざわざ注記してあります。北斎は『富嶽三十六景』の「東海道品川御殿山ノ不二」でやはり桜越しに富士山を描いています。これはこの絵より後のことですが、ここには英国公使館を造ることになったのですが、完成を目の前にして高杉晋作らによって全焼させられてしまいます。いわゆる英国公使館焼き討ち事件です。それはともかく、この絵の画面上半分は以前からののどかな花見の風景ですが、下半分は時代の波をもろに受けて土を削り取られた後の無残な姿をさらしています。単なる名所というだけでなく、安政という時代を表現しています。

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