fc2ブログ

名所江戸百景~深川(2) 

材木商というと紀伊国屋文左衛門などを思い出しますが、現場で働く人たちは威勢のいい江戸っ子のイメージも強いのです。
『名所江戸百景』の第百六景「深川木場」は冬の風景です。

名所江戸百景106
↑深川木場

掘割と橋、浮かぶ材木、働く人々。労働の場であるわけですが、水郷の情趣とでもいうものをおのずから持っているように思います。雪で一面真っ白。空は黒々として人は点景。むしろ犬や雀が目立ちます。手前の番傘にはまた「魚」の文字が入っています。例によって版元「魚栄」の「魚」の字です。静かな中に木がぶつかるカタンカタンという音が聞こえるような気がします。

藤沢周平や池波正太郎の小説は好きでよく読みました。最近も繰り返し読むことがあります。本所や深川は大事な舞台ですね。小名木川も彼らの小説を読んでいるとあまりにもよく出てきますので、いつしか身近な川のように思えてきました。
『名所江戸百景』弟九十七景「小奈木川五本まつ」。

名所江戸百景097
↑小奈木川五本まつ

芭蕉稲荷神社のある万年橋から小名木川を東へ行き、高橋、新高橋を過ぎると左手(北側)に五本松が見えてきます。「川上とこの川下や月の友(芭蕉)」はこの五本松のところで月を見て詠んだ句です。「この川下」が今芭蕉のいるところ。川上には自分と同じように月を見ている友がいるはずだと詠んでいます。五本の松のうち、九鬼大隈守の屋敷から小名木川に出ていたものが最後まで残っただそうで、かなりの巨木、古木です。江戸名所図会もこの松を描いています。

五本松
↑江戸名所図会 小名木川五本松

江戸名所図会のほうはあたり全体を描いていますが、広重はあくまで川を描き、松は突き出している部分だけ。しかも近景として画面に大きく描いています。中央の舟にはちょっとした旅支度の人も乗っており、行徳(下総国)のほうからやってきた、あるいは戻ってきた人でしょうか。南北の岸沿いの道には駕籠や歩く人が極めて小さく描かれています。

にほんブログ村 演劇ブログへ
 ↑応援よろしく!

kgaeonrjuiをフォローしましょう

小名木川も大川から東へ行けば行くほど周囲にお屋敷が減ってきます。五本松は九鬼家の屋敷から伸びていましたが、このあたりの南側は文久二年の古地図では「明地」「八右衛門新田」で、その東側も新田の中に屋敷があるといった風情です。その「明地」は小名木川、横川、横十間川、仙台堀に囲まれたところなのですが、この埋立地一画の大半は一橋家の「十万坪」といわれる広大な土地でした。第百七景「深川洲崎十万坪」は海側から洲崎、十万坪方向(北向き)を描いています。

名所江戸百景107
↑深川洲崎十万坪

木場の南側の海岸を洲崎といい、弁天社がありました。今の洲崎神社です。どんどん埋め立てが進んで今はもう海岸ではありません(明治になると近くに洲崎遊郭までできました)が、このあたりはとても見晴らしのよいところだったようです。絵には弁天社は描かれておらず、左端中央やや下に木場の材木のようなものが見えます。遠景の特徴ある山は筑波山。その洲崎のほうから北にある十万坪を見ているということでしょうが、どこがどう十万坪なのかはっきりしないほど荒涼とした冬の夜です。
さてなんといっても鷲です。広重の視点はほとんど鷲と同じ高さで、いわば鷲の仲間のように空を舞いながら絵筆を執っているようにすら見えます。この鷲は急下降していますから、獲物を見つけて狩をしようとしているのでしょう。獲物は何? 気になるのが海に浮かぶ桶です。といっても、鷲は桶を齧る趣味はありません。ひょっとしたらあの桶の中には人間がいるのではないか。要するにあれは棺桶なのではないかなどと想像が膨らみます。それにしても鷲の姿の美しさ。星と同化しているかのようです。

五本松を東へ行くと本所の北十間川から南に流れてくる横十間川に出合います。その合流点から見て北東側の田畑の中に羅漢寺がありました(明治になって目黒区下目黒に移転)。今の都営新宿線西大島駅の近くです。ここを描いたのが第六十六景「五百羅漢さゞゐ堂」です。

名所江戸百景066
↑五百羅漢さゞゐ堂

境内西側にさざえのような螺旋階段を持つさざゐ堂があり、その三階(最上階)には周囲を展望できる外廊があり、西側からは富士山を遠望できました。北斎の『富嶽三十六景』にも「五百らかん寺さゞゐ堂」があります。広重は南南東方向からこのさざい堂を右端に置いて近景の深川の田畑と遠景の本所の屋敷を描いています。夏の風景で日傘をさしている人もいます。視点がずいぶん高く、実際に見たわけではない風景を描いているのでしょう。横十間川や猿江の材木蔵が見えてもよさそうなのですが、見当たりません。

深川の南東の端のあたりの新田にはいろいろ名前がついています。そもそも「深川」も開拓者の名前によって付けられたものですが、このあたりの新田も同様に名がつきます。砂村新左衛門という人が開いたので砂村新田。十万坪のすぐ東側です。第二十九景は春の「砂むら元八まん」。

名所江戸百景029
↑砂むら元八まん

ここにあった八幡様は後に移転して富岡八幡宮(深川八幡)となりますが、もとの宮も残っていて、それを元八幡といったそうです。今も「富賀岡八幡宮」として地下鉄南砂町駅の近くにあります。境内には、当初の位置からは移されたそうですが、富士塚もあります。この絵の方角としては南東を見ていることになり、はるかかなたには房総半島。手前には桜が咲いています。右下から左にのびる土手道がありますが、その周りは何もなく、嘉永五年の古地図ではすでにこのあたりは南側に松平出羽や松平大膳の土地があり、果たしてこれがほんとうに広重が安政(嘉永の次の年号)のころに見た実景だったのか、今の私には追究する力はありません。

スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://tohjurou.blog55.fc2.com/tb.php/3111-5c2c05b2