戸浪と源蔵 

「菅原伝授手習鑑」のなかで最も人間臭くリアルに描かれるのはあるいは源蔵夫婦かもしれません。
江戸時代の武家の考えでは不義となる職場恋愛。それで追い出されても愛情は貫き、しかも主君のことはひたすら思いやっている。
書道の腕は弟子の中でもずばぬけて、それで

    筆法の伝授

をされると感激しつつも勘当の許しを乞わずにはいられない。
それがかなわなくてもやはり誰を恨むでもなく自分たちの過ちであることを身にしみて理解している。誠実、悪く言えばバカ正直。松王のようなスケールの大きさはない。だからこそ我々の背丈と違わない小市民に近い男と女。
寺子屋でも、田舎者の子供はだめだとかなんとかウジウジ言って、(松王に用意された)小太郎を見るとこれだと思い、しかしこの子の母親が帰ってきたらどうしようとか、火の車だ、おっつけこっちに回ってくるなどと言い尽くします。もちろん松王夫妻だって苦悩しています。家で

    散々ほえた

じゃないか、もう泣くなと松王がいみじくも言っています。彼らとてさんざん嘆いているのです。しかしそれは舞台では見せず、源蔵夫婦だけがリアルに嘆いて見せる。
夢かうつつか、松王と子供の母は夫婦だったのか、と驚くところも源蔵の目は観客の目と同じ。
戸浪はとてもできた女性で、出るところでは出る、下がるところでは下がる。小津安二郎の映画に出てくる加藤治子さんのような家事に長けたてきぱきとした女性です。
この公演ではこの源蔵夫婦がとても生き生きとしていたように思います。

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簑二郎さんの戸浪がとてもよかった。そつがない気の利く奥さんでした。それだけでなく、いざ首実検となったら源蔵から刀を受け取り命を落とす覚悟もできている。

    ネジ

の形もとても鋭く、菅秀才の首にまがいないと松王が言うと腰が抜けそうな様子を見せる。さらに、子供とはそんなにかわいいものなのか、その子を死なせた気持ちはいかばかりのものか、と千代の心を思いやる。
二郎さんは千代より戸浪がニンなのではないでしょうか。
和生さんの源蔵も浄瑠璃に的確に合わせていて抜け落ちるものがなく、主役の松王を引き立てるにじゅうぶんでした。和生さんは相当きちんと本を読んでいるのだろうなと思いました。
「せまじきものは宮仕へ」はとんでもないトップに仕えねばならない役所の職員さんにも通ずるかもしれません。今も昔も何も変わらない宮仕えの悲哀。私も今は気楽な立場ですが、責任のある宮仕え時代は胃が痛くなるような思いを何度もしました。これはこのブログに来て下さる多くの方も共通する思いではないでしょうか。
「せまじき」は本来は「すまじき」で、高校の古典文法では間違いになってしまいます(そういえば、昔NHKが和多田勝さんを使って「文楽鑑賞講座」を放送した時にこのタイトルをあえて「すまじきものは」と直していました。NHKも悩んだのでしょうね)。江戸時代になるとこういう言い方は当たり前で、「~せまい」(~するまい、の意)も浄瑠璃によく出てきます。
菅秀才は源蔵のあととりとして育てられていますが、筆法に関してはやがて源蔵から菅秀才に引き継がれるはずで、たしかにあととりともいえます。
しかし彼らには

    実の子

はいない。だから最後まで彼らは松王夫婦の気持ちをわかっているようで100%はわかっていない。松王夫婦の悲しみがさらに際立つのです。
和生さんも松王のニンではないので源蔵がピタリだろうと思います。
この公演の人形の好演として、和生、簑二郎を挙げないわけにはいかないと思います。

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