差別の話 

いつぞや、学生から差別語について質問されました。「どういう言葉が差別語なのですか?」というものでした。
実際は差別語というものが法律で決まっているわけでもなく、いわば自主規制というか、常識的に言って差別的だと思われる語が差別語といわれているのだろうと思います。
放送局や新聞社などのマスメディアは一人の発言が場合によったら何千万人という人の目や耳に届きますから、かなり慎重にならざるを得ないはずです。学校ではどうなのかというとこれも

    自己判断

ですが、どこまでで線を引くかは個人によってさまざまでしょう。
以下、あえて「差別語」を列挙することがあります。

学生は「めくら」「つんぼ」「おし」などは差別的だと思っているようです。障害者を蔑む印象が強いのだろうと思います。私が子供の頃は、ごく普通に使っていた言葉ですが、今の学生世代なら子供の頃から「そういういいかたはやめなさい」といわれてきたのだろうと思います。いや、そもそもそういう言葉は教わらなかった可能性も高いでしょう。
これらの語は私自身も今は使いません。それは差別語として決まっているから、という外部からの指示や圧迫によるものではなく、そういう言葉を使うことによって自分がいやな思いがするから、という

    内的なもの

といってもよいのです。差別をする気は毛頭なくても、しているような気になって、やはり今はもうたまりません。
こういうものは誰かが線を引くというのは事実上不可能だろうと私は思っています。
以前、目が不自由、耳が不自由という言葉が通用するからというので、テレビで「頭が不自由」「顔が不自由」などという表現をしている人があったようです。これはなるほど差別語の範疇に入らないのかもしれませんが、他人を蔑んでいることには違いありません。

にほんブログ村 演劇ブログへ
 ↑応援よろしく!

kgaeonrjuiをフォローしましょう

人種差別というと、黒人に対する差別の歴史が問題視されることが世界的にあります。日本人でも、高齢者世代では「くろんぼ」ということばがまだ生きていますが、「ぼ(坊)」にはやはり差別的な響きがあると思います。並みの人間扱いしていない、という感じです。私の父親も黒人差別の意識は持っていたように思います。父が悪人だったというのではなく、そういう時代に生きた人なのだろうと私は理解していますが。
カルピスの商標やだっこちゃん人形、ちびくろさんぼのお話など、私が子どもの頃には普通にあったものが、いつしか差別的ということで

    姿を消し

たり、変えたりしています。
昨今ではアジアの一部の国の人に対してその国の民であるからという理由だけで差別したり罵ったりする風潮もあります。
差別意識をもって差別している人はもちろん困ったものですが、差別していることを認識しないまましていることも往々にしてあり、これも気をつけなければならないと思っています。私自身、これまでそういうことをしてきたはずだと自覚しています。あれは差別だったな、とあとで気がつくのです。
今、私はどちらかというと差別を受ける立場になってしまいました。
差別語で罵られた経験はありません(あるかもしれませんが、私にはわかりません)が、差別そのものはしょっちゅう感じます。ある学生が「差別している人は大人に多いと思います。三十代以上の人こそ平気で差別しています」と怒っていました。まさにその通りで、ほとんどの学生はなんの意識もなく接してくれるのですが、問題は

    おとなたち

なのです。教育現場にいながら平気で差別をする人たち。おそらくそういう人に限って「差別などしていない」と豪語すると思いますが、私の目から見るととんでもない思い違いなのです。私がそういう思い違いをしてきた自覚があるだけによくわかります。
「差別語」さえ使わなければ差別にならない、というのは法律さえ守っていたら何をしてもいいという考えと似ています。さらに自らを戒めながら生きていきます。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://tohjurou.blog55.fc2.com/tb.php/3154-ebac2bd2