平安時代の犯罪(1)〜窃盗など 

『伴大納言絵巻』には検非違使が出てきます。平安京の警察です。この時代にも泥棒はいました.特に驚くのがしばしば内裏(皇居)に盗人が入ることです。今の皇居はもともと千代田城ですから大きな堀や高い石垣があり、また警察官が掃いて捨てるほど(失礼!)います。皇居に侵入しようとしたらすぐに警官が飛んできますし、防犯カメラの類もあちこちで目を光らせ、その他、私の知らない防犯設備がいろいろあるのでしょう。ところが平安時代は内裏に盗人が入ったという記録がちらちら残っているのです。

  今日、蔵人量能の宿所に盗人が入った。
  南殿の前を通って、日華門、宣陽門、
  春花門などから逃走した。この間、左
  近衛や左兵衛の官人は逮捕できなかっ
  た。(寛弘二年四月三十日の記録)

どうも警備のものもいいかげんだったようですね。
またどれほど生活に困っていたのか、意外な盗人もいます。天徳五年(961)五月には村上天皇の兄式明親王の子である

    親繁王

を首領とする中臣良材らの盗賊グループが源満仲の家に押し入っています。「王」とは聞こえがいいですが、名門生まれというだけで将来天皇になるわけでもなく、ろくな職も得られるわけでもなく、これで性格が荒っぽくて自暴自棄になるような人間なら犯罪も犯しかねない。そんな惨めな身分だったのかも知れません。
検非違使は当然犯人を逮捕しなければなりませんが、現実にはなかなか難しかったでしょう。科学捜査のない時代ですし、夜陰にまぎれた盗賊は追いかけようもないかもしれません。事件が起こってから捜査する格好をするだけ、という気がしないでもありません。

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江戸時代、放火は火あぶりでしたが、平安時代にも放火はあり得たことです。
私がしばしば書いている

    応天門の変

は伴大納言による放火であったということになっています。実際、大納言ともあろうものがのこのこと夜遅くに応天門まで言って自分で火を付けたとは思いがたいのですが、彼の差し金で放火されたというのが公的な史料(『三大実録』という史書)に載る「事実」です。ただし、実際は伴善男という人物が藤原氏による他氏排斥の犠牲になったのかもしれません。この火事も果たして放火なのか、火の不始末によるものを政治的に利用しただけなのか、今となってはわかりません。
放火は政治的なものだけではない、というか、大半はそうではないのです。多くは盗みとのワンセット。火を付けて騒ぎを起こして盗みに入ったり、逆に盗みの

    証拠隠滅

のために火を放ったりしたのでしょう。
内裏に入る盗賊も火を付けた可能性はあります。
弘仁十四年初冬から仲冬にかけて、大蔵省で何度か火事がありました。犯人は優婆塞(在俗の出家者)たちで、騒ぎに乗じて盗みをするつもりで火を付けたと白状しています。
長和三年(1014)二月九日の亥の刻(夜の10時前後)、登華殿から火が出たのですが、この時に出納(ものの出し入れをする下級役人)らが盗みを働き、麝香などの高価なものを盗んでいます。この例は放火ではないような気がするのですが、火事場泥棒の典型でしょうね。

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