意外な反応 

「文学」という授業で、私は『竹取物語』を通読する授業をしたのです。実際は、(時間がありませんから)原文はいくらか朗読するという程度でしたが、それでも最初から終わりまで話は省略せずに読み通しました。
理系の学生が多いため、当初はあまり一生懸命聴いてくれない学生が目立ちました。教養科目の

    単位

を取らなければならないから、というのが受講動機だったと告白する学生もいました。
実際、感想を書いてもらうと最初の頃はひどくいい加減なのが多くて、かなり案じていたのです。しかし辛抱強く話すほかはないと思って方針は変えず、読み続けたのです。
できるだけ

    絵画資料

を用いて彼女たちに分かりやすく話すようにしました。質問には丁寧に答えるようにしました。
しかしそんな技術的なことではなく、どうも『竹取物語』という、千年間愛され続けてきた物語の力が彼女たちをとらえたようなのです。
「え? かぐや姫の話ってこんなのだったの?」という反応が次第に増えていきました。彼女たちは「竹の中からかわいい女の子が生まれて、大きくなって月に帰っていくお話」という、物語の枠組みだけをイメージしてこの授業に出てきたようなのです。それが全然違う。まさかこういう話だとは、と感じたようです。

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授業のタイトルは「文学」であって、古典講読ではありません。いってみれば、

    文学とは何か

という話をするのが本来なのでしょう。昔の帝国大学の大教授のお話ならそういうこともあったでしょうが、いまそういうことをして私の教える大学の学生に何の役に立つかということを考えるとかなり懐疑的になります。
むしろ一つの作品を、しかもできるだけわかりやすい作品を読むことを通して文学とは何かという問題を隠し味のようにして味わってもらうほうがよいのではないかと思っているのです。
今回は、竹取物語を通して

    愛と死

について話をしました。かぐや姫と翁の親子の愛、かぐや姫と帝との男女の愛、これを敷衍すると学生にとってきわめて身近な問題になります。
また、かぐや姫の月の世界への帰還というのは彼女の現世からの離脱、つまり死を表すことになると思います。この物語の作者は、作品の最後に駿河国の山につわもの(士)をたくさん(富)登らせて、かぐや姫から渡された壺の薬(不死の薬)を焼くことで結末としました。いうまでもなくこれが「富士山」のいわれだと説明するわけです。しかしこの場面も、壺を焼くというのは火葬を意味するようにも見えてきます。そして「不死」を煙にするのは帝でさえ「死」を受けれることで愛の永遠性を獲得することになったことにつながるのではないか。
その煙が今も立ち上っている(平安時代、富士山は煙を上げていた)というのが結末ですが、これはかぐや姫をあの世に送る儀式のようにも見えるのです。
「愛と死」は文学のテーマであり続けてきました。結局、この物語を読むことで、「文学の話」をした、と私は思っているのです。

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