60年目の曽根崎心中(3) 

西亭脚色の「曽根崎心中」が初演されたのは昭和30年1月。このときの上演台本と今ではかなり違っているのが

    天満屋

です。まず登場人物が違います。今、歌舞伎で「曽根崎心中」を上演する場合、「天満屋」には平野屋久右衛門が出てきますよね。徳兵衛の叔父さんです。この人がお初と話し合う場面があります。実は西亭版の文楽でも本の段階ではこの久右衛門が登場していたのです。
場面は徳兵衛が来る前で、久右衛門がお初に「あの正直な徳兵衛をどうやってだましたのですか」と恨み、徳兵衛を返して欲しいと言います。しかし、お初から生玉での一軒を聞かされると、「九平次は腹黒い男だ。以前私を騙したことがあったがそれは許してやった。その恩を忘れて徳兵衛をひどい目にあわせるとは、この私を踏みつけたのも同然だ。理非を正してやろう」といって帰ります。さらにお初と徳兵衛が道行に出た後再登場して九平次を懲らしめることになっていたようです。しかしやはりこれは不要な人物ということになったようで、結局この役は番付に載ったものの演ぜられることはなかったようです(吉田玉男『文楽藝話』)。
徳兵衛が来たとき、現在は遊女ふたりが姿を見せているだけですが、原作では亭主夫婦、料理人、下女がいるようです。亭主(西亭版の初演では惣兵衛という名があります)は今でもあとで出てきますが、女房までいたのですね。この女房役は

    桐竹紋太郎師

、つまり簑助師匠のご尊父が演じられたようです。
九平次は、現在の上演では一人でやってきますが、原作では「悪口仲間二三人」と一緒です。ということで、ずいぶんにぎやかですね。そういえば生玉でも九平次の連れは、現在はつめ人形二体ばかりですが、原作では「五人連れ」とあってかなりの人数です。
おもしろいのは、この「悪口仲間」には当初名前などなかったのですが、昭和34年の公演では「佐平」「太兵衛」という名前が与えられるようになります。ただし、昭和五十一年の国立劇場の公演では見えなくなっています。このあたりから九平次が一人で来るようになったのでしょうか。
映像で確認すればいいのですが・・・。

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九平次とお初のやりとりは西亭版では原作よりかなり分かりやすい言葉が使われます。「死なずがひな目に遭うて」(原作)に対して「死ぬるばかりの目に遭うて」(西亭)。「向後(きやうこう)ここらへ来るとも」(原作)に対して「この後ここらへ来たるとも」(西亭)、「さのみ利根にいはぬもの」(原作)に対して「さのみ憎うはいはぬもの」(西亭)、「そこな九平次のどうずりめ」(原作)に対して「そこな九平次の毛虫殿」などです。
分かりやすさとともに語りやすさや作曲のしやすさも考慮されたのではないかと私は勝手に想像しています。
「お前も(原作は「こなたも」)殺すが合点か」というところがありますが、かなりきつい表現です。ところが

    津駒大夫さん

によりますとこの部分を稽古で一生懸命語ったら「なんでそんなに語りこむねん。さらさら、すっといって」と言われたそうです。
やはりお初はあまり強さを強調されないのが現代の「曽根崎心中」なのかもしれません。
このあと下女が出てきますが、今は

    「お玉」

という名前がついていますが、もちろん原作にそんな名前はありません。それどころか、吉田玉昇さんが遣われた昭和30年の時も役名は単に「下女」だったようです。名前がついたと言うことは、ある程度大事な役割と見なされたことのあらわれかもしれません。昭和42年の朝日座の上演ではすでに「お玉」になっています(それ以前にもあるかもしれません)。原作では、お初が二階から転落したときに、下女は丸裸で起き出してきます。おそらく客席はそれを見て笑ったのでしょうが、今はそういう演出はありません。今で言うと、『鎌倉』のおらちのような感じだったのでしょうかね。
天満屋の段切は西亭も原作を全く変えていません。ここは近松の文章を尊重して道行に進めたようです。
歌舞伎では鴈治郎の徳兵衛を扇雀のお初が引っ張るようにして花道を引っ込んだのでしたが、文楽の初演では天満屋の外に出るのは徳兵衛が先だったようです。ところがこれも先にお初を外に出してやるように変わったのだそうです。このエピソードも玉男師匠の芸話に載っています。

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