60年目の曽根崎心中(4) 

西亭もいくらなんでも道行の冒頭部は書き換えていません。ここを変えたのではさすがに許されないでしょう。
「この世の名残」から「川の水嵩もまさるべし」までは原作どおりです。
原作ではそのあと、梅田橋を北に渡った二人が対岸に見える

    堂島新地

を見やって、当時流行していた「心中江戸三界」の歌を聴いたりします。こういうところも西亭はばっさりカットされます。やはり現代人にはわかりにくいということなのでしょうか。
そして、原作とは話の順序が変わります。
原作では
  私たちも噂の種になるだろう→いつはさもあれこの夜半は
  →二十五歳と十九歳の厄祟り
  →風しんしんたる曽根崎に着く→人魂が出る
  →松と棕櫚の連理の木の前を死にどころと定める
  →抱え帯を裂いて身体を結びつける
  →それぞれの両親のことを思う
  →徳兵衛、初を脇差しで突き、自分はかみそりで首を切る
となりますが、西亭は
  (曽根崎に着いたこと、連理の木、抱え帯の詞章はない)
  →風しんしんと吹く→人魂が出る
  →私たちも噂になるだろう→厄祟り
  →いつはさもあれこの夜半は
  →それぞれの両親のことを思う
  →寺の念仏の切り回向
  →(心中の具体的な描写はない)
詞章もずいぶん違います。原作では徳兵衛は冥途の両親に「おつつけ御目にかかるべし。迎へたまへ、と泣きければ」というのですが、西亭版では「そなたを会はせ嫁しゅうと、必ずそふ(「添ふ」か? 「さう=左右」か? 国立劇場で配布される「床本」では「添ふ」)と抱きしむれば」です。「嫁、しゅうと(舅、姑)」という発想は「新口村」の「私は嫁で」「嫁と思うてやるではないが」を思い出したりしますが、その一方、明治生まれの西亭の家族に対する考え方、あるいは昭和30年の社会通念としての家族の考え方の反映でもあるのではないか、とも感じています。女は結婚すると男の家に入るという明治の民法の名残のような。

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決定的に違うのは原作が「曽根崎の森の下風、音に聞こえ、とり伝へ、貴賤群衆の回向の種、未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」で終わるのに対して西亭版は「長き夢路を曽根崎の森の雫と散りにけり」になっていることでしょう。
西亭版の最後の詞章はなんとも切ないばかりのですが、本来は「恋の手本」となったという、悲劇の中の一種の

    ハッピーエンド

とも感じられるのです。
社会的には敗者となった、誰も認めてくれないまま死んで行く、親不孝でもある、そんな二人ではあるのです。しかし、愛は勝利した、愛は成就した、それゆえ彼らは「恋の手本」になったのです。
夢のようにはかないこの世での生に自ら暇乞いして、ふたりは森の雫と散ってしまう。後にはもう何も残らない。切なく甘美でさえある三味線の旋律が続くばかり。観客の胸に余韻を響かせつつ静かに幕が引かれる。この幕切れは絶望的な悲劇のように感じられるかもしれません。なるほど、近松が書いた、二人の人生が森の下風の音のよう評判となって聞こえていき、伝えられ、多くの人の回向の種となって、未来成仏の疑いない恋の手本となった、という部分は、西亭によって原文から削ぎ落とされました。

    原作至上主義

で行くとこれは許しがたいことだと思います。しかし、近松時代とは異なった三人遣いの人形による技もあります。語りと三味線と人形の力で「恋の手本となりにけり」の一文が表現できたとしたらそれでじゅうぶんなのではないか。近松は言葉としてそのように書いたわけですが、その心、そのテーマを観客が感じることができるなら、言葉を超越して近松の思いは今に生きていると言ってよいのではないか。そんなことを私は最近考えています。

※ちなみに、宇野信夫脚色の歌舞伎の結末は「恋の手本となりにけり」です。

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