自由な社会に(1) 

私が中高生のころ(だと思うのですが)、翼がほしいとか、銀河の向こうに飛んでいけとか、そんな歌が流行っていました。
束縛から解放されることがあのころの若者、つまり私より少し上の年代の人たちから私の世代にかけての「生き方のテーマ」だったような気がします。

    戦争を知らない

若者と戦争の悲惨を知る大人との間には埋めがたい溝もあって、旧世代に反抗するように髪を伸ばした男たちはそれだけで許されない風潮もありました。あのころはまだ「男子中学生は丸刈りにすること」という学則を持つところが多かったはずです。
長い髪は若者の自由を求める心のシンボルだったのでしょうが、なぜそうすることが自由の象徴なのか理解できない大人が多かったわけです。もっとも、まだ若者にすらなっていなかった私にも当時の青春世代の気持ちは完全には理解できていないだろうとは思いますが。
ビートルズがあり、フォークソングがあり、若者は

    ギター

を愛しました。今でも団塊の世代(から少し下にかけて)の方で巧みにギターを弾く人が少なくないはずです(私でさえ兄のお古のギターを触ったことがありました)。長い髪でギターを抱える彼らを「弟」として見上げていた当時の私の目からは、戦争の残滓を倦み、新たな時代を渇望してもがいている姿に見えたのでした。

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そして、昭和も終わって、誰もが自由にものが言える、情報が手に入る社会になってきた、はずだったのです。
学生に昔の話をすると、「私は自由な現代に生まれてよかった」という声がしばしば出ます。彼女たちも自由な世界を満喫している、はずだったのです。
しかし、私たちはほんとうに

    自由な社会

に生きているのでしょうか?
最近のこの国の人々の物言いを眼にしていると、むしろ時代を逆向きに歩いているのではないかと思うことがあるのです。
まず下品な物言いが横行していることに驚きます。ヘイトスピーチとして非難されるものもありますが、大都市の市長になっている人物までがとても許容できないような品のなさをさらけ出しているのにはあきれ返ります。そして、それを真っ向から批判する声をメディアはまともに表に出しません。
知識人と言われるような人の中にも信じられないことを言う人があります。多少間違っていようとも言いたいことをマイクの前で大声で叫んだらいいんだ、というのが今の流行。「本音を言う」テレビ番組が人気があるそうで怒鳴りあいのようなことまで辞さない、むしろテレビ局はそれをおもしろがる演出すらしているようです。そのくせ、政府の方針に逆らうようなことは言わないでほしいと口止めするという話があるくらい、オカミに怯えている。「自粛」「自粛」と。
情報は限られた人だけが持つべきものであるという風潮も強まっています。いや、これは昔から何ら進歩していないということかもしれません。

  「民は之によらしむべし、
      之を知らしむべからず」


というのは『論語』「泰伯」の言葉です。「人民には、頼られることはできるが理解させることはなかなか出来ない」ということで、だから為政者たるものには徳というものが必要なのだ、ということでしょう。孔子先生はまた「其の身正しければ令せずして行はれ、其の身正しからざれば、令すといへども従はず」(『論語』「子路」)とも言っています。
ところがこの「よらしむべし、知らしむべからず」」という言葉は「人民は頼らせておけばいいのであって、情報を開示する必要はない」という意味に曲解されることが多いのですが、実はこの曲解のほうが長らく「民主主義」という虚像を支えてきた理念だったのかもしれません。

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