聖書 

私はクリスチャンではありません。事実上の無宗教で、法事の時のみ数珠を持つエセ仏教徒です。釈迦もキリストもマホメットもすべて立派な人だとは思いますが、彼らの言う神も仏も私は信じていないのです。だからといって

    宗教心

がないかというとそうでもないのです。この宇宙なんて、どうやってできているのか、なぜ地球があって生物がいるのか、どうにもわかりません。科学的には説明のできることも多くなってきているでしょうが、何かの意思が働いているのではないか。仮にそれを「神の意思」と呼び、それによってこの宇宙は作られたのです、というのが真実であるなら、全部一気に解決しそうです。私の場合、なにかそういうものの意思を感じずにはいられない、という意味で宗教心があるのです。
自分の存在も先祖があるからこそであることは自明のことですから、その先祖に対して感謝や尊崇の念は持っています。墓参りも嫌いではありません。私の先祖はあまり古くまでは遡れません(というか調べようとしていないのですが)が、父方(阿部氏)は名前から言うと阿部仲麻呂や

    安倍晴明

につながるかもしれません(笑)。ということは葛の葉狐の眷属かも。いや、あるいは奥州で豪傑としてならしていたかもしれません。なお、ソーリ大臣とは縁つながりでないことを願っています。
それはともかく、学生時代から法華経(妙法蓮華経)や般若心経は岩波文庫で読んでいましたし、聖書は大学一年の時に勉強会であれこれ学びました。

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この春休み、仕事に関わるために聖書を読みました。新約のみ、特に「ルカ」や「使途行伝」を。私の研究室のデスクのすぐ背中にある本棚には辞典類や史料、和歌関係の叢書などとともに聖書が鎮座しています。しかし、学生時代に何度か読んでいるはずなのに、そしてその後も折に触れて眺めてきたはずなのによく覚えていませんでした。それにしても、読み始めると止まりません。
今回はキリストの復活からその後について知りたいことがあって読んだのですが、イエスが磔刑にされたあとの弟子たちの人間味も、こう言ってよいのかどうかわかりませんが、なかなかおもしろいです。

    「エマオの晩餐」

というカラヴァッジョの絵がありますが、復活したイエスが弟子たちの前に現れ、最初イエスだとわからなかった弟子がそれと気付いた場面です。
こういう絵を見ているとイエスも人間的(なんだかちょっとふっくらしたイエスです)、弟子たちはもっと人間的(人間だから当たり前ですが)。

カラバッジョ エマオの晩餐
↑カラヴァッジョ「エマオの晩餐」

はじめて聖書を読んだ時は、弟子たちのことを最初から聖人であるかのようなイメージを抱いていたのです。でも実は彼らはどこまでも生身の人間。それが成長していく過程もおもしろいです。同じカラヴァッジョの

    「聖マタイの召命」

も、うつむいている徴税人のマタイに「私に従いなさい」とイエスが声をかけると、マタイは直後にすっくと立ち上がってついていく、という劇的な場面を描いています。あのマタイの「銭勘定」をする姿も実にいいと思います。
「聖書」はイエスの言葉を多く描いてそれを中心に読むのが普通でしょうが、私の場合は弟子たちの言動を読む方が楽しみだったりします。

カラバッジョ 聖マタイの召命
↑カラヴァッジョ「聖マタイの召命」

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