天の原 

小学校教諭を目指す学生向けの授業は、私が担当する唯一の「専門科目」です。

この授業で先日「和歌はどのように音読すればよいのですか?」という質問がありました.こういう質問をするのはとてもいいことだと思います。学校の国語の授業は音読が大事です。しかも文学、しかも韻文ですから、どのように音読するか、しっかり考えておく必要があると思います。
一例として、阿倍仲麻呂の

  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

を取り上げました(小学校で習う可能性も高い歌ですので)。
百人一首にも入っていますから、カルタ取りの要領で、

  天の原ふりさけ見れば春日なる
       三笠の山に出でし月かも

と読んでしまいそうになります。でもほんとうにそれでいいのでしょうか?
和歌は叙情表現が基本ですから、意味と作者の気持ちを考えて読みましょう、そうすれば「春日なる」で切るような読み方はできないと思います、と話しました。そもそも和歌は「57」がひとつのまとまりを持っていました。
長歌は 57 57 57 57 57 57・・・7 という形を持っています。これを575 75 75 75 75・・・77 のように読んだのでは意味から言ってもおかしなことになると思います。短歌はこの長歌の57の繰り返しを2回にしたものと考えればいいので、本来は 57 57 7 なのです。
いわゆる57調の歌はやはり57を単位として読むようにすべきだと私は考えています。ですから、

  天の原 ふりさけ見れば
   春日なる三笠の山に
    出でし月かも

がよいと思うのです。

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この歌は初句と二句で目の前に広がる大空を詠んでいます。「大空を振り返って遠望すると」ということです。作者の目と心は大きく外に広がっています。次の三句と四句は「(私のふるさとの)春日にある三笠山に」と言っています。この時、仲麻呂は唐にいるのですから、大空を眺めても春日など見えるはずもありません。つまり実景ではなく彼の心の奥にある風景です。彼は三笠山に登ったこともあったかもしれません、幼い時には世界一大きな山に見えたかもしれません、そしてその

    三笠山から出てきた月

を見たこともあったでしょう。
結句になると「出た、あの月だ」といい、心の奥の風景と目の前に見える大空の月がひとつになります。
こういう歌ですから、「天の原ふりさけ見れば」は広い大空を詠むつもりで開放的に、「春日なる三笠の山に」は心の奥を除くように、そして「出でし月かも」はふたつの思いが月という形をとってひとつになる感慨を詠ずるのがよいのではないでしょうか。小学生にも歌の背景を話せば

    きっとわかる

と思います。
そんな話をして、もう一度「天の原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かも」と、今度は学生と一緒に朗詠してみました。やはりいい歌です。

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