ついでに京歩き(1) 

賀茂祭の行列を見て、今年の五月十五日は満足しました。電車も混雑していたためずっと立ちっぱなしで、しかもすでに相当歩いていました。無理してまた体調を崩しては行けないと思いましたのでこの時点でもう帰るつもりでした。上賀茂への行列に付き合う手もあったのですが、これは来年にします。
しかしせっかく御所まで来ていますので、ぐるりと回るくらいはしておこうかなと、いつもの散歩癖が頭をもたげたのです。
文化芸術会館の北辺を西へ行くと、もう何度訪れたか分からない京都御苑。清和院御門を入って砂利道を少し歩くと、藤原道長の屋敷跡。

    土御門第

といっています(土御門邸、土御門殿とも)。大きな貴族の屋敷は一町、およそ110m四方なのですが、この屋敷はその2倍。ほぼ25000㎡という広大な屋敷でした。ちなみに、『源氏物語』の主人公光源氏の六条院という屋敷はさらにその2倍であったことになっています。
土御門第の敷地のほとんどはこの砂利道の南側、今の大宮御所、仙洞御所の中におさまるのですが、砂利道の少し北側までが屋敷の範囲で、案内札が立っているあたりはほぼ北辺に当たります。平安京の道で言うと「土御門大路」(ほぼ今の上長者町通)に面しており、それゆえに「土御門第」といわれます。ついでに申しますと、屋敷の南辺は近衛大路(油小路通)、東は東京極大路(寺町通)、西は富小路です。京都の東の端になりますが、内裏から適当な距離があり、

    鴨川も近い

ロケーションです。もともとは道長の妻(源倫子)が伝領した屋敷で、道長はここで妻と同居しています。

土御門第跡
↑土御門第跡

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御所の東側の門は建春門。「春」は「東」に通じます。ふと思いついて、その東側にある

    学習院跡

の写真も撮っておきました。「日本の文化と歴史」の授業で皇室の話をしていますので、皇族が通うことの多い(最近はそうでもありませんが)学習院とはどういう学校なのかについても少し触れることになるからです。今の学習院は普通の私立学校で、入学難易度もトップクラスというわけではなく、宮内庁とも直接関係ありません。しかし、戦前戦中は華族のための学校という性格を持つ宮内省外局の学校でした。そして学校名の元になったのが京都の学習院。これも幕末に貴族などの教育機関として設置されたものでした。
文楽の桐竹勘士郎さん(やめられました)や竹本南都大夫さんは学習院大学のご出身です。明治生まれの人などは学習院というと「いい学校」「畏れ多い学校」というイメージを持たれたらしく、勘士郎さんなど、なんでまたそんな立派な学校を出てまで人形遣いになったのか、といわれたそうです。

学習院跡
↑学習院跡

北東隅の

    猿が辻

で木彫りの猿にご挨拶。幕末に姉小路公知の暗殺されたところでもありますね。

猿が辻
↑御所の北東隅。猿が辻

御所の北を通って西側へ出て少し休憩。お腹にものを入れて、水分も摂って、あとは気の向くままです。建礼門から南へ。このあたりは賀茂祭の有料観覧席でしたので、片付けがおこなわれていました。宴のあとのけだるい空気の中で何千脚もあるパイプイスを手際よくトラックに積んでいく人たちがいました。

宜秋門
↑宜秋門(広重の絵のようです・・笑)

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