家庭菜園 

平安時代の中ごろに慶滋保胤(よししげのたすたね ?〜1002)という人物がいました。賀茂忠行の子ですが、その「賀」を「慶」、「茂」を「滋」と字を変えて慶滋を名乗りました。学者で身分は高くなく、官位も従五位下止まりでした。仏教に傾倒して『日本往生極楽記』を記しています。極楽往生した人の伝記ですね。
その保胤はもうひとつ

    『池亭記』

という著書も残しています。なかなかおもしろいもので、彼が五十歳ころにやっと手に入れた家のこと、京都土地事情などが書かれています。
彼は長らく自分の家を持たなかったのですが、いつか自宅をという希望はあったようです。そして、そろそろ手に入れようと決めたのですが、一条、二条のあたりなど高嶺の花。三条、四条も手が届きません。同じ三条でも西の京(大内裏より西側)に行けば高くはないのですが、こちらは湿地で住宅に適さず、実際住んでいる人などあまりいないと言うのです。
十世紀の後半にして、京都はすでに東側、つまり

    左京

が栄えて、しかも次第に鴨川を超えて東山の方も開けていったのです。
さて、保胤がやっと手に入れたのは六条の家でした。六条というと『源氏物語』では紫の上が幼い頃住んでいたり、六条御息所が屋敷を持っていたり、光源氏が壮麗な六条院を建てたりしていますから、かなり開けたところかというと、実はそうではないのです。このあたりは内裏から遠く、貴族の邸宅というと、たいていは隠居屋敷のようなもの。光源氏も本来は二条で暮らしていたのですが、もうこれ以上はないという地位にまで上り詰めて悠々と六条で暮らすことにしたのです。

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保胤はそうではないのです。地価の安い、六条だからこそ買えた土地だったのです。広さは4分の1町で、ざっと1000坪くらいでしょうか。
屋敷内には寝殿と東の対、それに持仏堂などを建て、池も作りました。おもしろいのは、池の南側に田と

    菜園

を作っていることです。
そして彼は気が向いたらこの菜園に行って野菜の世話をしたらしいのです。
おそらくここで収穫されたものは彼の食膳に上がったと思いますが、一体どんなものを作ったのでしょうか?
ネギとか茄子とか瓜とかごぼうとか芋(さといも)とか、そんなものでしょうか?
藤原氏全盛の時代に賀茂氏に生まれた彼は、いずれ大臣になろうなどということは考えもしなかったはずです。
それでも彼は内記という職で

    プライド

を持って仕事をしていました。そうして勤め上げてやっと手にした我が家。そこで菜園を作って、自分も手入れをしにいったりする。
私はもう自分の家を持つ夢は諦めました。せいぜいプランターで一株とか二株とか、その程度の野菜作りを楽しむだけです。
生活の豊かさでは保胤にははるかに及ばないのですが、『池亭記』を読んでいると、なんとなく親近感を覚えてしまいます。

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