いつの間にか、できる 

日本人だから日本語が使えて当たり前。たしかにそうかもしれません。実際、私の周りの人はほとんど日本語で話すと分かってくださいます。一方、日本人だからといってきちんとした日本語が使えないのもまた当たり前なのです。日本人だけではありません。アメリカ人の英語にもひどいのはありますし、フランス人も韓国人も他の国の人々もいい加減な自国語を使う人は多いはずです。
だからこそ大学の授業に

    日本語表現

などというのが成立するともいえます。ところがどっこい、教える方もまた完璧な日本語を使えるわけではありません。文学部の廃止などで行き場がなくなった文学の専門家の教員がやむをえずこういう授業を持つことになる、という例が多いからです。ほかならぬ私がその一人です。

    自分のことを棚に上げて

申しますが、こういう教員の中には文章の下手な人、敬語などよく知らない人もいるのです。「古典文学を読んで日本語の表現を学びましょう」などとごまかして、授業内容を事実上の古典講読にした古典専門の教員もいました。こんな授業だと学生の顰蹙を買って受講者は減り、しかも内容はその教員の得意分野ですから、学生には迷惑でも教員はとても楽ができるのです。しかし、そんな器用なこと(!)ができない私は、いつも冷や汗を流しながら敬語だの挨拶だのという学生が知っておくべきことがらについて話しているのです。

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とにかく専門外ですから、いつもアンテナを張って材料集めをしないとやっていけません。ところが、案外その材料はあちこちに転がっているものなのです。町の看板とか新聞に挟み込まれているチラシなどに奇妙な日本語が書かれていたりするので、それを教材にしています。つまり「この文には日本語として変なところがあります。それはどの部分でしょうか」と問いかけるときの材料にするのです。それを書いた人をけなすつもりなどありません。我々もこういう間違いを犯しかねないからお互いに気をつけましょう、という気持ちです。
この間、病院の待ち合いにいたら、モニターにこんな表示が出てきました。

  当院では緊急を要する患者様の診察を
  優先されます。そのため、診察の順序
  が前後することがありますので、ご了
  承してください。

しめた、教材だ!(笑)と思った私は思わず手元にあった白紙にメモしてしまいました(私はたいてい白紙を持っています)。
割合に間違いには気がつくものなのですが、どうして間違っているのか、どう直せばよいのかということになると学生諸姉もかなり苦しみます。しかしこれを何度も繰り返していると、分かるようになってきます。半期15回の授業の終わる頃になると、学生がしばしば「私、

    いつのまにか

わかるようになった」と不思議がるようになります。「あなたがこの15回それだけ頑張ったのだと思います」というと、彼女たちはにっこりしてくれます。

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