月の明るさ 

9月27日は中秋の名月でした。旧暦で言うと八月十五日、秋が深まっていくころに見える満月で多くの人に愛されてきました。
源氏物語の主要な女性のうち、葵の上(光源氏の最初の妻)、夕顔(光源氏がもっとも心惹かれた中流階級の女性)、紫の上(光源氏の最愛の妻)は、八月十五日前後に亡くなっています。
作者の紫式部はどういう気持ちでこの人たちの最期をこの時期に設定したのでしょうか。

    「秋は悲しい季節」

というのは、本来は日本人の感じ方ではありません。むしろ中国文学(漢詩など)の影響で秋は悲しいものと感じられるようになったものといえそうです。そして、古今和歌集(905年成立)の秋の部には秋の悲しさを詠んだ歌がいろいろ出てきます。

  木の間よりもりくる月の影見れば
    心づくしの秋は来にけり
 (木の間から漏れてくる月の光を見る、
  ああ、物思いの限りを尽くす秋がやっ
  て来たのだ)

  月見ればちぢに物こそ悲しけれ
    我が身一つの秋にはあらねど
  (月を見るとなんとも物悲しい。
   私だけのための秋ではないのだが)

秋の悲しさは月の光にも感じられるわけです。太陽の光とは違った儚さ、寂しさを感じ取る繊細さは日本人の心にぴったりはまったのだろうと思います。
その一方で、月の光の明るさ、美しさもまた和歌に詠まれることがあります。

  ひさかたの月の桂も秋はなほ
    紅葉すればや照りまさるらむ
  (月に生えているという桂も秋は紅葉
   するから照り勝るのだろうか)

とても気の利いた、悪くいうとあほらしいような発想の、古今集時代に発達した詠み方の歌です。私はこういう発想はとても好きですが。

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月の明るさは太陽に比べるとほんとうにかすかなものです。そりゃそうです。太陽の光を反射しているだけなのですから。あの光だけで本を読むことは不可能です。それでもやはり夜の闇の中ではひときわ明るいこと、申すまでもありません。

  白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の
    数さへ見ゆる秋の夜の月
  (白雲に羽を重ねるようにして飛ぶ
   雁の数まで見える秋の夜の月よ)

月に雁、ですが、その雁の数までが見えるというのです。
現今、都会では月の威力はたいしたことがないのです。なんと言っても町が明るすぎます。家の中も明るくて、うっかりすると満月を見逃すことだってあります。
それだけに、月見の

    和菓子

を食べる家もどれくらいあるのか気になるところです。この日ばかりは和菓子屋さんも一日限定で月見団子を作っていますし、都会の人も月の明るさに誘われて、というよりは中秋の名月だと言われたから、というかなり理知的な理由で買い求める人が多いのではないかと思います。それは別にかまわないのですが、月の明るさを必ずしも実感できないとしたらやはりいささかの寂しさを覚えます。古典の和歌をすこしでも読んで、昔はいかに月が明るいものであったかを感じるのもいいことだろうと思います。

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