あたりまえの話 

和歌と源氏物語と古典文学史と卒業論文とを担当していた昔は、やはり幸せでした。何ごとにも自信はないとはいえ、これならなんとかなるかもしれない、という内容の授業ができたのですから。これはあくまでレトリックですが、予習なんてしなくても大丈夫、という感じ。
しかしそんな昔を懐かしんでも仕方がありません。今は不当な待遇でこきつかわれている身の上ですから、従僕の定めとしては何を言われてもたてつくこともできません。
授業も

    専門とか専門外とか、

そんなことはもう論ずるに値せず、できることは何でもする、そうしないと生活ができないという状況です。
大学というところで初めて教えたのは20代の頃。その時の科目は「国語表現と「文学」だったと思います。「文学」は源氏物語を取りあげたのですが、「国語表現」は困りました。何をすればいいのかさっぱり解らず、手探りで日本語のあるべき姿を話すのですが、何しろ私自身が若くてまだ日本語に熟達しているとはとてもいえない頃です。しかたなしに、市販のテキストをいくつか買って、その中から取りあげられそうな話を選んでなんとかごまかした感じでした。そうそう、ここまで書いて思い出しました。話し方については、浜村淳さんのラジオ番組をひとまとまり5分ばかり録音して、そのすべてを文字にしたものを見ながら聴いてもらいました。「この人の話の特徴は何だろう」「どんな工夫をしているのだろう」という分析をしたりしました。それにしても下手な授業で、あの頃の学生さんには申し訳ないことをしたと思います。その後はこういう授業はとんとしなかったのですが、まさかその経験が時を経て生きてくるとは思いませんでした。

    芸は身を助く

というほかはありません。今はそれでお粥を食べている(ご飯と言えないところがつらい・・・笑)のですから。

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私が担当している授業の中で、「日本語表現」というのは最近流行というか、大学初年時の重要科目になっている観さえあります。テキストもいろいろ出ていて、大きな大学に勤めている人が自分で使うように作成して市販もしているというものも目立ちます。大きな大学だと教科書として自分の教室で多数売れますから出版可能なのでしょう。ただし、そういうものは概して私には使いにくい(笑)。ですから見本は取り寄せるのですが、使ったことがなく、今はもう見本すら見る気がなくなりました。
私は難しいことは一切しません。国語学の専門家ではないので、能力的にできません。いわば

    あたりまえの話

ばかりしているのです。気楽なものです(笑)。何しろテキストは学生が作ってくれるのです。彼女たちが日本語の表現で日常困っていることを発表してくれて、それを解決していく、というのが基本です。ですから、ある程度の年齢の人なら誰にでもできる授業かも知れません。
時には

    人生相談

のような質問も出てきます.親とうまくいかない、とか、バイト先でお客さんにいやなことを言われて悩んでいるとか。しかしこういうのにも私は全部答えることにしています。「日本語表現」という看板に偽りあり、といわれてもしかたがないくらいです。しかしもう開き直っていますので、文句を言いたい人には言わせておく、という境地に至っています。
ただし、予習に費やす時間は半端なものではありません。50人の学生からひとつずつ質問が出てきても50問です。それを次の時間までに全部解決せねばなりません。ひとつにつき5分としても4時間以上かかります。すべての時間を質問への回答で費やすのではなく、講義もありますから、実際の予習時間は4時間をはるかに超えると思います。月曜から水曜まで授業して、木曜から日曜まで予習するという、まさに自転車操業。止まったら倒れるのです。
この後期もまたいろいろなエピソードが出てくると思いますので、気が向いたらここに書き留めるつもりです。

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