数え年、旧暦 

私の親や祖父母の世代は数え年と満年齢、新旧の暦などはさほど苦もなく操っていたような気がします。
その影響で私も数え年がなんであるか、新旧の暦がどう違うかなどは小学生の頃には理解していたように思います。しかし今の学生はさすがにそこまでわからないものが多くなっています。これは別に彼女たちが悪いのではなく、それだけ

    時代が移った

ということです。
『源氏物語』の話などをしていますと年齢が必ず出てきます.その際いつも「今の年齢でいうと」という言葉を付け加える必要があります。「大学1年生の皆さんは今二十歳です」というと、「いえ、まだ十八です。浪人してません」といわれ、「いえいえ満年齢で十九歳になる年は、みなさん二十歳なのです」「十九歳は今では大学生の年齢ですが、数え年なら高校3年生になる歳です」。これを何度言ってもなかなか分かってもらえません。誕生日が来ないと歳をとらないと思っているのもわかりにくさに拍車をかけます。「誕生日は関係ないのですか?」「誕生日のお祝いはしないのですか?」「それじゃあ、自分がいつ歳をとるか分かりませんね」などなど、私の方がわけが分からなくなりそうな質問が続出します。
ただ、時々

    「神社に行くと

数え年ですよね」というような反応をしてくれる学生もいます。「そうなんです。たとえば厄年など、数え年で表示してありますね」。これで一件落着の時があります。ああしんど。

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旧暦も厄介です。九月は晩秋。十月は冬。正月は春のもので七夕は秋の行事。五月雨は梅雨のこと。これが実感としてなかなか分かりません。
古典文学を読む時は今以上に季節感を重視する必要があります。八月十五日と書いてあればすぐさま中秋の名月を思い出さねばなりません。九月二十日という日付を見たら「なんだか寂しい頃だな」と思ってもらえるといいのです。月の大きさ、暖かさ、寒さなど

    細やかな感覚

で理解できるようになると古典文学はさらにおもしろくなります。
『源氏物語』で日付が出てくると作者はそれなりの季節感を読者が理解するものという前提で書いているはずです。ところが高校の古文では日付なんてまず飛ばすように読みます.そんなことにこだわっていると「肝腎の」

    現代語訳

ができません。もちろん現代語訳は肝腎でも何でもない、できることならしない方がいいくらいです。
エアコンもハウス栽培もない時代は、今よりはるかに季節が敏感に感じられていたはずです。だからそれを理解することは重要なのです。月の光の明るさも大事です。月の満ち欠けこそが一か「月」です。
私はしばしば「今日は旧暦で何月何日」ということを確かめながら生活していますが、そろそろ本格的にカレンダーを旧暦にしようかなと思うことがあります。

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