清涼殿(1) 

11月文楽公演の「玉藻前曦袂」には紫宸殿とか清涼殿ということばが出てきました。神泉苑もあって、やはり平安京に興味のある者にとってはとても身近な名前でした。戦国時代の戦跡などはよく文楽に出てきますが、私はいまひとつ実感がなくて困っているのですが、こちらは実感がありすぎて、「ちょっと違うんじゃない?」などと余計なことを考えてしまいます。

京都市中京区の京都御所に行くと、平安王朝の内裏のあり方をある程度実感することができて参考になります。ただし今の京都御所は本来の内裏とは違う場所にある里内裏のひとつですから、平安時代の内裏とまったく同じもの、というわけにはいかないのです。本来の内裏は今の京都御所よりずっと西側。京都は中心地が東へ東へと移っていきました。
それでも今の京都御所は紫宸殿(ししんでん)があり、右近の橘、左近の桜があり、日華門、月華門、承明門が紫宸殿の南庭を囲み、さらに紫宸殿の北側には天皇の日常の在所である

    清涼殿

があります。この殿舎は東向きで、東側に庭があります。
里内裏(臨時の内裏)は寝殿造りの建物があてられることが多いですから、こういう形になっていないところがあります。紫宸殿は寝殿造りの寝殿(南向き)が該当しますのでこれはぴったりです。しかし清涼殿には「北の対」、すなわち寝殿の北側に「南向き」に建てられた殿舎が当てられる事が多く、当然その部分の庭は南側になります。言い換えると南の庭が「東庭」として使われることになって、角度を

    90度変えなければ

ならないことになります。あくまで仮の内裏だから庭の向きくらいいいだろう、と言えばそうなのですが、一条天皇などは一条院(大内裏の東北にあった建物)にかなり長く暮らしていましたので「仮」ともいえない状態だったのです。一条院も清涼殿は北の対で、やはり南向きになっていました。

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清涼殿はもともと天皇の起居する日常の場で、日常の在所は清涼殿の中心にあたる「昼の御座(ひのおまし)」、寝る所は「夜の御殿(よるのおとど)」ともいわれました。しかしここで儀式がおこなわれなかったわけではありません。例えば、元日の寅の時(夜明け前です)には天皇が

    四方拝(しはうはい)

といって、属星の名を唱えたり天地四方や山稜を拝したりしますが、これは清涼殿の東庭での行事でした。また、もとは大極殿(だいごくでん。今はありません。平安神宮がそれを模して作られています)でおこなわれた元日の「朝拝(てうはい)」は、清涼殿東庭での「小朝拝」(こでうはい)になりました。スケールは小さくなったものの、大極殿へ出向く面倒はなくなります。こんな具合にして、大極殿は次第に役割が減って行きました。
元の内裏、つまり平安京内裏の清涼殿についてはいろいろと図がありますので、その構造は概ね分かります。前述の

    昼御座

である母屋を中心に、南側が殿上の間(公卿、殿上人の控えるところ)、西廂には鬼の間(鬼の描かれた壁画があった)、台盤所(天皇の食事を準備する女房の詰め所)、朝餉の間(天皇の略式の食事の場)、御手水の間、御湯殿の上があり、母屋のすぐ北には夜の御殿、二間(夜居の僧などが控える)、藤壷の上の御局、萩の戸、弘徽殿の上の御局があって、東廂には石灰の壇(いしばひのだん。天皇は日々ここに立って伊勢大神宮などを遥拝した)があります。さらにその東側には東孫廂(ひがしのまごびさし)、そして簀子(縁側)があるのです。

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