何がおもしろいねん? 

源氏物語の授業をしている時も私は学生に知識の詰め込みをしません。高校の古文じゃないんだから、文法がどうのこうのとかこの古語は重要だとかそういうことはあとまわしです。よって、試験もありません。
簡単に授業をしようとするなら、むしろその

    

がいいのです。少しずつ原文を読んで、「ここはこういう意味です、こういう掛詞があります、ノートを取っておいて、試験では現代語に直したり、文法の問題を解いたりしてください」とやっておけば労力は少ないのです。予習時間なんて今の5分の1以下で済むと思います。ろくに給料をもらっているわけではありませんからそれでもいいかなと思わないでもないのですが、それだけはできない性分です。
講義のタイトルも

    文学

ですから、「古文」の知識を詰め込むのはその趣旨にも合いません。大きな建前としては、文学が訴えるものを少しでも感じてもらうこと、たとえば、作者からのメッセージをしっかり受け止めて作者と会話できるような読者になってほしいということです。
その場合、作者は大物である方がこちらも張り合いがあります。紫式部はやはりたいしたものです。公開講座で私より年長の方々にお話ししていても、受講者の皆さんがわくわくしながら聴いてくださることが息づかいから感じ取れるくらいです。

にほんブログ村 演劇ブログへ
 ↑応援よろしく!

kgaeonrjuiをフォローしましょう

といっても、どうしても学生の中には「おもしろくない」と最後まで思い続ける人もあります。そういう学生が多ければ多いほど、私の授業は「うまくいかなかった」ことになります。
今でも文学部国文科の教員になって、いくらかでも国文学に関心を持っている学生に教えたいという気持ちはあります。その一方で、教養の科目としてどこまで学生に訴えられるかを極めたいという思いも持っているのです。
自分が関心の無いものに他人が関心を持っていると「あんなもの、

    どこがおもしろいの?」

と思いがちです。私も「文楽なんか、どこがおもしろいねん?」「古典文学なんか、なんで勉強してんねん?」。これまで何度言われてきたかわからないことです。
実は私自身、子供のころに松鶴師匠(六代目)の落語を聴いていて「この人の芸のどこがおもしろいんだろう?」と思ったことがあります。しかし、おもしろい(笑いが多い、という意味ではなく)からこそ聴く人がいるわけで、なにか魅力があるに違いない、と思うと、その

    魅力が知りたくて

しかたがないのです。すると、鈍感な私ですから長い時間はかかるのですが、たいていそのおもしろさがわかるようになってきます。
古典と呼ばれるものはすばらしいから伝わってきたのであって、少し時間をかけたり、導いてくれる人がいたら大変魅力あるものなのです。人の話も聴かずにちょっと観ただけで「こんなもの、どこがおもしろいねん」といって愚弄したり補助金を削ったり(って、誰のこと?)してもまるで建設的ではありません。これからも生きている限り「よき注釈者」でありたいと思っています。

スポンサーサイト

コメント

その時が来るんです!

私が文楽、と言うよりは「浄瑠璃」というものに興味を持ち始めて、豊竹山城少掾のCDを買って聴き始めた時には何だか可笑しくてクスクス笑いながら聴いていました。でも、何度も聴いていたある日、その語りや三味線の音色から物語の情景が頭の中に浮かんでくるように来るようになりました。押し寄せる軍勢や暗い雪空など、様々なシーンを表現する手段をこんな風に研ぎ澄ませて来たのだと思うと、この文化を失ってはならないと強く感じます。そして、この雷鳴に打たれるような瞬間を、もっと多くの人に経験してもらいたいなあと、つくづく感じております。

♪やなぎさん

やなぎさんのように、同じ花を見て美しいと言えるかたがらっしゃるのはほんとうに嬉しいです。
私も山城という人については最初魅力がいまひとつわかりませんでした。綱大夫(八代目)のほうがずっとわかりやすかった覚えがあります。
もう、持っていても仕方がないのですが、山城のCDはとても捨てられません。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://tohjurou.blog55.fc2.com/tb.php/3727-2314db53