小弓と蹴鞠(2) 

光源氏は「息子の右近大将(夕霧)も今日は来ていたはずだがどこへ行ったのか」と尋ねます。すると「大将様は別の場所で蹴鞠をさせてお楽しみです」という報告がありました。
光源氏は蹴鞠について「乱りがはしきことの、さすがに目覚めてかどかどしきぞかし」と述べます。

    「騒々しいもの

だが、それでも刺激的で気が利いている」というのです。清少納言が『枕草子』で「さまあしけれどをかし」(様子は見苦しいけれどもおもしろい)といっていたのと一脈通じます。美的センスの持ち主の双璧である清少納言と紫式部が言うのですから、この当時の代表的な見解といえるでしょう。
そして光源氏は「それならこちらに来させて、一緒に観よう」と考えます。
蹴鞠は今でも賀茂神社などでおこなわれています。
おおむね8人、6人、4人などで輪になって、「かかり」といわれる蹴鞠場(四隅に木が植えてあって、砂が敷いてある)で地面に落とさないように鞠を蹴り続けるのです。こういうのは訓練で上達すると同時に、やはりセンスのいい人がいるもので、今でもサッカーボールで何百回もリフティングする人がいます。
平安時代末期に藤原成通という人がいたのですが、この人が大変な蹴鞠の名人です。清水寺の舞台の欄干に乗って、蹴鞠をしながら行ったり来たりしたという伝説が伝わるくらいです。もっともさすがにその時は父親に厳しく叱られたそうですが。鎌倉時代には藤原北家流の難波家とその家から出た飛鳥井家が蹴鞠の家として知られるようになります。
鞠は

    鹿皮

を裏返して二枚つなぎ合わせたもので、きれいな球形ではありません。とても軽くて弾力性もあるようです。

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蹴鞠は激しく動きますから、競技者はどうしても若者になりがちで、しかもあまり身分の高い人は表立ってはしなかったのです。また、武官ならともかく、文官は遠慮しがちだったようです。やはり

    「乱りがはし」

と考えられていたのでしょう。
『源氏物語』に戻ります。「かかり」(蹴鞠場)がなかったので、適当な木のあるあたりをさがして、若者たちが始めます。
この日は風も吹かず、蹴鞠には絶好の日和。夕方になってきましたが、終わる気配がありません。最初のうちは遠慮がちに見物していた弁官(文書を扱う事務官)までが、あまりに熱が入ったので

    「よし私も」

といって庭に降りて行きました。すると光源氏がそばにいた息子の夕霧とその友人の柏木に「文官がああやって出て行くのだ。いくら上流貴族でも衛府の官人(武官)がおとなしくしていることはないだろう。私も若い頃はうずうずしたものだ」と二人をあおるのです。衛府というのは近衛府、兵衛府、衛門府を指し、夕霧は近衛大将、つまり近衛府の長官、柏木は衛門督、つまり衛門府の長官なのです。
そう言われると二人の若者は喜んで飛び出して行きます。やはり彼らもうずうずしていたのです。

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