小弓と蹴鞠(6) 

「小弓と蹴鞠」というタイトルを付けて2〜3回書こうと思ったのですが、思いがけず長くなりました。しかも小弓の話はもう終わっています。しかし面倒ですから(笑)タイトルはそのままにして続けます。

猫が首紐を引っ掛けてしまって、御簾がめくれあがってしまいます。女房たちは騒ぐのですが、すぐに御簾を元に戻すことのできるものはいません。このあたりが女三宮の女房の未熟なところなのです。そのあとこんな一節があります。

  几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。

几帳は障屏具、つまり目隠しに用いられる調度品で、台に二本の柱を立てて横木を渡して、帳(とばり)をおろしたものです。その几帳のきわから奥まったところに袿姿でお立ちになっている人がいます。
袿(うちき)は唐衣(からぎぬ)の内に着るもので、袿姿とは唐衣を着けないくつろいだ姿ということになります。
そういう服装の「立ちたまへる人」の姿が柏木の目に見えたのです。「たまへる」と尊敬語が使われていますので、見た目にも他の女房とは違った様子が思い浮かべられます。そして彼女は

    立っている

のです。御簾の近くに寄って立っている。これはやはり不用意と言われてもしかたがないと思います。当時の高貴な女性は通常座っています。蹴鞠の様子をうかがおうとしていたとしても、立っているのは奇妙です。ここは「ゐたまへる人あり」(お座りになっている人がいる)とあったとしても、現代人の我々はあまり差を感じないかもしれません。しかし作者はあえて彼女を立たせて、その不用意さを強調しています。
その姿を柏木に見られたのです。

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これはもう大変な事件です。この当時の貴族の女性はめったに男性に顔を見られてはならないのです。男性が覗き見をした場合でも見られた女性に油断があったとさえ考えられるほどです。
かつて光源氏の息子の夕霧は野分(台風などの強い風)の日に妻戸(建物の四隅にあった戸)が少し空いていたところから偶然父の妻である紫の上の姿を見ます。その美しさは「春のあけぼのの霞の間より

    樺桜の咲き乱れたる

を見る」ようだと描写されます。夕霧という人は真面目人間として描かれるのですが、それでもこの垣間見(かいまみ)の体験をずっとひきずっていくのです。光源氏は、自分が父の妻に当たる藤壷中宮と密通した経験があるので、夕霧もまちがいを起こしては行けないと思って絶対に紫の上の顔を見られないように注意するのですが、野分という自然のいたずらがこういう事態を生んでしまったのです。
一方の女三宮の場合はむしろ女房たちや三宮自身の

    不用意

が招いたできごとなのです。
それにしても、長らく恋い慕ってきた人の姿を目の当たりにした柏木の動揺は推して知るべしです。
例の小侍従という女房に「よそながらお姿を見て恋しく思っている」という意味の歌を贈ります。ところがこの女房はまさか柏木が女三宮の姿を観たとは思っていませんので、いつもの物思いなのだろうと適当にあしらいます。
それがまた事態を重大にすることになるのです。

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