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奈良の大仏さん 

飛鳥大仏よりははるかに、そして鎌倉大仏よりも3m以上大きく、日本を代表する「大仏」といえば、これはもう圧倒的に東大寺(奈良市雑司町)の

    盧遮那仏

でしょう。聖武天皇の発願で多くの人手と費用をかけて造立された像高(台座を除く)15m近くにもなる巨大な仏像です。
関西人は神様でも仏様でも親しみを込めて「さん付け」しますので、「東大寺の盧遮那仏」などとかしこまらずに「奈良の大仏さん(だいぶっつぁん)」というほうが通りがよいかもしれません。その住まいは一般的に大仏殿といわれますが、正式には東大寺の金堂です。

    戦争は文化を破壊する

と、学生にはしばしば言うのですが、大仏もまたしかり。兵火のために二度まで焼けています。ただ、大仏は金銅仏ですから、建物が全焼しても像が燃え尽きるということはなく、今も膝の辺りなど部分的には奈良時代のものが残っているようです。
最初の兵火は1180年、平重衡らによるもの。この時はすぐに再興されて5年後に開眼供養がおこなわれています。まだ本来の像の記憶が明確なうちに再興されたといえるでしょう。2度目の兵火は松永久秀によるもの。1567年のことでしたが、この時はなかなか復興せず、やっと像ができて開眼供養がおこなわれるのは百年以上が経過した1692年でした。その時、以前の姿を知るものはひとりもいなかったといってよいでしょう。

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大仏ともなると、再興するためには多額の費用が必要ですから、寄付を募らねばなりません。重衡らによる兵火の時におこなわれた勧進(寄付を募ること)の趣意書にあたるのが、能の『安宅』や歌舞伎の『勧進帳』に出てくる「勧進帳」でした。実際は弁慶がそれと称して適当に読み上げたものですが。
平安時代の震災で部分的に補修したことはありましたが、このときまでは奈良時代の造立時の大仏が残っていたわけで、戦乱とはなんとも空しいことをするものです。二度とこのようなことがないことを願います。
12世紀後半、この兵火に焼かれる直前に成立した

    『信貴山縁起絵巻』

には、主人公の命蓮という僧の姉が、信濃国から弟を尋ねて奈良まで来て、その行方を知るために東大寺の大仏に祈願する場面があります。そこに兵火に遭う前の姿の大仏が正面から描かれていて、結果的にはそのあとまもなく失われることになる造立時の姿を偲ばせる、とても貴重な絵になっているのです。
『信貴山縁起絵巻』はこの4月から5月にかけて奈良国立博物館で展示されますので、興味がおありでしたらお出かけになってください。
また、『信貴山縁起絵巻』の成立より前に、奈良の寺を訪れた大江親通という人物が

    『七大寺巡礼私記』

という書物を書き残しています。もちろんこれは絵ではなく文章(漢字ばかり)ですが、南都の諸寺の様子が書き留められていて、当時の寺がどのような姿をしていたのかを知る手がかりになります。私は学生時代に説話文学のゼミで興福寺のことについて発表するためにこの書物を悪戦苦闘しながら読んだ覚えがあります。

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