泣く男(1) 

男の子は泣いちゃいけない、と言われてきました。しかし私はいじめられっ子でしたので、なかなかそうもいかないのです。
今はもう、泣いて何が悪いのか、と開き直っています。
文楽で何度か泣いたことがあります。おいおい泣くのではなく、じわっと涙が出るという感じです。
最初に涙ぐんだのは越路大夫、清治の

    「引窓」

でした。涙があふれてきた時は自分でもびっくりしました。その次は津大夫、団七の「沼津」。先代玉男の十兵衛、先代勘十郎の平作、簑助のお米でした。「沼津」はそれ以後はおもに住大夫師で聴きましたが、やはり何度かぐっとくることがありました。
咲大夫(おゆみ)、9歳の咲甫大夫(おつる)による『鳴門』もかなり涙腺が緩みました。咲甫坊やのデビュー、「咲大夫の会」でのことでした。周りにいた年配のお客さんも「咲甫ちゃんのおつる、目が潤んだわ」とおっしゃっていましたので、私だけではなかったようです。当時の咲甫ちゃんはまさにおつるの年ごろでしたから、リアルそのものでした。
音楽でも涙があふれそうになることがありました。ブルックナーの

    「ミサ3番」

は、朝比奈隆と大阪フィルで。
老巨匠カール・ベームとウイーンフィルのブラームス第一番。ゲルハルト・ボッセとライプツイヒゲバントハウスバッハ管弦楽団のブランデンブルク協奏曲3番。ベームはとても高くて学生の私はナマでは聴けなかったのですが、ボッセはチケットをもらって行きました。あの当時外国の演奏家などなかなか聴けなかったのに聴けた感動もあったかもしれません。アンコールのG線上のアリアもしみじみとしました。
絵でも琴線に触れると涙ぐみそうになることがあります。絵がぐーっと大きくなって迫ってくるような感じがすることもあります。

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もちろん、文学でもそういうことはあります。『竹取物語』で涙ぐむ、といってもあまり信じてもらえませんが、事実なのです。途中は笑いがあるのですが、かぐや姫が月に帰ることを告白するあたりからは、かぐや姫と翁、かぐや姫と帝などの関係を考えると胸が熱くなります。
『源氏物語』も感動的な場面が多くあります。最近授業で読んだところでは光源氏と六条御息所のふたつの別れの場面。御息所が、光源氏の妻の葵の上に取り憑いて苦しめ、その結果葵の上が頓死するという悲劇があったあと、娘が伊勢の斎宮になるので同行する(つまり都を離れ、事実上、世を捨てる)ことを決意します。そして、彼女が伊勢に行くために嵯峨の野宮で潔斎している時に光源氏が訪ねる場面が「賢木の巻」にあります。
原文を朗読しているうちに、実は涙が出そうになるのです。

  はるけき野辺を分け入りたまふより
  いとものあはれなり。秋の花みな衰
  へつつ、浅茅が原もかれがれなる虫
  の音に、松風すごく吹きあはせて、
  そのこととも聞きわかれぬほどに、
  ものの音ども絶え絶え聞こえたる、
  いと艶なり。

これだけでもう心が揺れます。そして光源氏が「暁の別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな」(暁のわかれというのはいつもつらくて涙に濡れますが、今朝はこれまで体験したことがないほどの秋の空です)と詠んだあと、

  出でがてに、御手をとらへてやすら
  ひたまへる、いみじうなつかし。風
  いと冷ややかに吹きて、松虫の鳴き
  からしたる声も、折り知り顔なるを、
  さして思不こと泣き谷、聞き過ぐし
  がたげなるに、ましてわりなき御心
  まどひにも、なかなかこともゆかぬ
  にや

とあり、さらに御息所が「おほかたの秋の別れも悲しきに鳴く音なそへそ野辺の松虫」(ありきたりの脇の別れでも悲しいのに鳴く音を添えないでおくれ、野辺の松虫よ)と詠みます。感動してしまいます。光源氏も泣くのです、御息所も泣くのです。私も泣くのです。
その感動を伝えられないだろうかと思って、自分なりに工夫して朗読しているのですが、どれほど伝わっているのかは不明です。授業でここまで感情をあらわにするきょういん教員というのは珍しいかもしれません。邪道かな、とも思いつつ、朗読は続けるのです。

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