京都御苑の南側(1) 

閑院宮邸跡について書きましたが、京都御苑の南半分についてもう少し書き留めておきます。
実はこのあたり、古くは町家が軒を並べていたのです。やがて公家たちが屋敷を構えてひしめくように立ち並ぶことになりました。いわゆる「五摂家」でいうなら、一条、近衛は今出川通側でしたが、鷹司、九条の屋敷は南側にありました(もうひとつの二条家はもともと二条にありましたが、江戸時代に今の同志社女子大学構内に移りました)。有栖川宮はもともと御所の北東側にあったのですが、幕末に御所の南に移りました。
ついでに申しますが、御所の東北側はいわゆる

    鬼門

で、今も築地塀がへこんだような形になっています。しかし現在の形は幕末(慶応年間)以降のもので、それ以前は御所の東北側はもっと大きく欠けたようになっていて、今の猿が辻あたりは有栖川宮邸の中でした。

江戸時代の内裏
↑江戸時代の内裏のイメージ

上の図の右上(東北)側が今と違っています。さらに古くは欠けて見える部分の左側(白いところ)も内裏ではなく、18世紀の初めまでは図の斜線部分のみでした。
幕末に姉小路公知が殺されたのは文久年間でしたから、まだもとの猿が辻ということになります。公知は宜秋門(御所の南西門。公家門。公家はこの門を出入りします)を出て北回りに自宅に帰ろうとして、

    朔平門(御所の北門)

を過ぎたあたり、つまり旧有栖川宮邸の近くで暗殺されました。姉小路屋敷は御所の東北部にありましたので、もう少しで家に着くところでした。
有栖川宮はその後、建礼門(御所の南門)のすぐ南東側に移ったのです。京都御苑を南北で半分に分けると、この新しい有栖川宮邸跡が南半分の北端ということになります。

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京都御苑の南側の話です。
移転後の有栖川宮邸の東隣は広大な大宮御所、仙洞御所ですが、私にとってはこのあたりは土御門大路を東に向かって行き、東京極大路に突き当たったところ、というイメージが強いのです。というのは、その土御門東京極大路の南側には、平安時代に藤原道長の屋敷である

    土御門第(土御門殿)

があったからです。高校時代に『紫式部日記』を読まれた方は、あの冒頭部「秋のけはひ入りたつままに土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」という文章がかすかにでも記憶におありかもしれません。あの「土御門殿」はこのあたりにあったのです。この屋敷は南北二百メートルあまり、東西百メートルあまりの敷地で今の大宮御所の北側から仙洞御所の庭園にかけての区域になります。仙洞御所は許可をもらえば見学することもできます。
有栖川宮邸の南は凝華洞跡。凝華洞は本来この有栖川宮邸の部分も含んでいました。
その西側、つまり有栖川宮邸の南西部には西園寺家の屋敷がありました。ごく短期間ですが、明治になって西園寺公望はここに私塾立命館も創設しました。邸内の鎮守社は

     白雲神社

として今も残されています。
西園寺邸の西側は今では梅林になっていて、先日行った時も多くの梅見客のかたがたがいらっしゃいました。このあたり、平安時代は枇杷殿(びわどの)という屋敷があり、これは道長の娘の妍子などの邸宅となりましたが、三条天皇などが一時御所にしたこともありました。

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