おとなたちの遠足(5) 

次は参内者の控え室にあたる三つの部屋。「虎の間(公卿の間)」「鶴の間(殿上人の間)」「桜の間(諸大夫の間)」です。総称としては「諸大夫の間」です。

諸大夫の間201637
↑諸大夫の間(手前=東側から虎、鶴、桜の間)

奥にわずかに写っている人は参内者ではなく警官です。この警官が我々の後からずっとついてくるのです。申し訳ないですが、うっとうしいです(笑)。
この東端に行きますと殿上の間(てんじょうのま)があって、さらにその奥に清涼殿の屋根が見えます。

諸大夫の間の奥から清涼殿を201637
↑諸大夫の間の東端から清涼殿の屋根を望む

そして新御車寄。大正天皇即位の時に作られたものだそうで、今、天応が京都御所に入る場合、この新御車寄から入ります。これもずいぶん立派なものです。

新御車寄201637
↑新御車寄

そして内裏の正門である建礼門。この門から手前が内裏になります。今、天皇はこの門から入ります。

建礼門201637
↑建礼門

建礼門の北側、つまり内裏の内側にあるのが承明門。この門を入ると紫宸殿の南庭(だんてい)です。

承明門201637
↑承明門。奥に見えるのは紫宸殿

その紫宸殿は、即位の礼のような重要な儀式が行なわれる内裏の正殿です。ただし、今の天皇はここでは即位しませんでした。
間口37mという壮麗な建物です。南庭に向かって18段の階(きざはし)があります。

紫宸殿201637
↑紫宸殿。ほとんど見えませんが、岡本保考(1749-1817)筆の扁額が掛けられています。

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このあと東側に回って建春門と春興殿は離れた位置から眺めるばかり。宜陽殿を横目に紫宸殿の裏手(北側)に回ります。
平安時代の内裏ですと、紫宸殿の北側には仁寿殿、承香殿などがありましたが、今の内裏にはありません。
いよいよ眼目の清涼殿です。天皇はもともと仁寿殿を日常生活の場にしていましたが、やがて清涼殿に移ります。私が主に勉強している時代の天皇は清涼殿で生活していました。東向きで、庭には呉竹、漢竹(河竹)があります。
東の弘廂(ひろびさし)には昆明池の障子、その北側に荒海の障子が置かれています。

清涼殿昆明池の障子201637
↑昆明池の障子(南側。昆明池が描かれている)

清涼殿昆明池の障子(北側 小鷹狩の図)201637
↑昆明池の障子(北側。嵯峨の小鷹狩が描かれている)

12世紀に描かれた『伴大納言絵巻』にも清涼殿が描かれています。この中央にいる人物の後ろにあるのが昆明池の障子です。

伴大納言絵巻201639
↑伴大納言絵巻の昆明池の障子

清涼殿荒海の障子201637
↑荒海の障子(手長足長が描かれている)

清涼殿を覗き込んでみます。こういうとき、私はよく見えるので便利です。中央に昼の御座(ひのまし)。天皇はここにいたり、奥の御帳台にいたりします。夜はこの右奥の夜の御殿(よるのおとど、よんのおとど)で休みます。

清涼殿昼の御座201637
↑清涼殿昼の御座

昼の御座の手前左には床が白っぽく見えるところがあります。これが石灰の壇(いしばいのだん)。ここで天皇は毎朝伊勢神宮を遥拝しました。白っぽいのは漆喰です。

石灰壇201637
↑石灰の壇(屏風の手前の白っぽいところ)

殿舎南側(向かって左)には年中行事の障子が立てられ、その奥は殿上の間になります。信貴山縁起絵巻と比較するとよく一致します。

河竹201637
↑漢竹、奥に年中行事の障子

信貴山201639
↑信貴山縁起絵巻の清涼殿。左隅に漢竹があります

平安時代の清涼殿には階が二つあったようですが、今は一つだけです。そして御溝水(みかわみず、みこうみず)が流れていて、石の小さな橋が渡されています。向かって左側に漢竹(河竹)、右側に呉竹。全体はこんな感じです。

清涼殿全体201637
↑清涼殿東側の全体

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