玉男、勘十郎、清十郎、簑助そして文雀 

私が文楽を観始めた頃、人形遣いの最高齢は桐竹亀松師だったと思います。なにしろ見始めの頃は誰が誰だか分からず、おじいさん、おじさん、おにいさん、にいちゃんくらいの区別しかなかったかもしれません。特に人形遣いさんは今より黒衣に隠れていましたから、プログラムで確認しない限りわかりません(床は口上がありますから、多少違います)。

    文楽そのもの

がおもしろいのであって、芸人さん(「技芸員さん」なんていう言葉も知りませんでした)には興味はなく、お名前を覚えようという気持ちすら少なかったと思います。
まだ朝日座の時代でした。
亀松師の下に吉田玉五郎師がいらっしゃいました。
このお二人は60代の終わりから70代でいらっしゃったのだろうとおもいますので、学生の私から見たらはるか彼方の世代のおじいさんだったはずです。今の玉也さんあたりのお年でしょうから、ちっともおじいさんじゃないような気もするのですが、それは

    私自身が歳をとった

からに他ならないのです。
ただ、申し訳ないのですが、両師ともその技芸についてはあまり覚えていないのです。失礼な言い方になるかもしれませんが、亀松師を認識し始めた頃は古怪な遣い方をする人だな、玉五郎師についてはおばあさんのよく映る小手の利いた(こんな言葉は知りませんでしたが)人だなという程度に感じていました。

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人形遣いは50代の先代玉男、先代勘十郎のお二人が座頭格。それはもう颯爽としていらして、玉男師匠なんて円熟期に比べるとかなり大きな動きをされていました(映像で見たら昭和40年代はさらに派手でした)。私自身、まだ

    肚で遣う

なんてわかりませんので、おふたりのむしろ派手な動きに魅了されました。両師のお名前はかなり早く覚えました。
次いで覚えたのは清十郎、簑助両師。清十郎師がまたかっこいいんです。切れ味がよくて立役も女形も人形の意思がよく見えるように感じました。亡くなったのはまだ50代で、ほんとうに惜しい方でした。文楽劇場開場公演では娘お里を1日だけ遣われて休演(代役はまだ40代だった一暢さん)、そのまま舞台に戻られることはありませんでした。
簑助師はあの当時から無類の美しさ。皆さんご存じの通りです。

    文雀師

は先代文昇、紋寿、文吾、玉幸などとほとんど一緒に、覚えました。簑太郎の名前も同じ時期だったと思います。つまりこのあたりで技芸員さんを強く意識し始めたので、あの人は何というお名前なのだろうということを調べたりしていたのです。文雀師の芸が分かるのは少し時間がかかりました。パッと見た目では派手さはなく、若かった私の印象に残りにくかったのだろうと思います。しかし簑助師の(酒屋の)お園がクドキでしっとりと行燈を拭くのに対して文雀師は昔ながらに半七の幻影を見たかのように足が進み、柱に手をかけて「どこにどうしてござらうぞ」。見ようによっては文雀師のほうが派手。しかしそれでも派手に見えないところに文雀師の芸の秘密があるのかも知れない、と思うようになりました。

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