大阪及び大阪人 

谷崎の言うことには共感することが多々あります。「私の見た大阪及び大阪人」は昭和七年(1932)に『中央公論』に発表されたものですが、今でも通用するようなこともいろいろ書かれています。
谷崎は、当時すでに東京の文化が関西を浸食しつつあったことを指摘しつつ、大阪人が生田流の箏曲や地唄などを習わなくなっていることを嘆いています。長唄などは声の出し方が素直なのでまだわからなくもないが、小唄など大阪人が謡いこなすことはできないとも言います。舞踊でも山村や井上の「舞」よりも藤間や花柳の「踊り」に圧倒されていくのは「甚だ慨(なげ)かわしい」とまで言っています。生理的、体質的に関西人と関東人は違うのだから、

    越えがたい差異

のあることを考えよとの指摘です。
私も、大阪の人は大阪文化に固執せよとは言いませんが、大阪の文化をないがしろにしたところで何のプラスにもならない、いやそれどころか、自己否定にすらなると感じています。
東京は多くが平野で、だだっ広いのです。だからここという中心地がない。庁舎は新宿区にあるのだそうですが、では東京の中心地は新宿なのかというとそうは思えません。東京の人が東京タワーや新東京タワーのようなものを建てたがるのは、なんとかだだっ広い平野部にランドマークを置きたいという気持ちのあらわれなのではないか。関西にはああいうものは合わず、

    大阪タワー

なんて昇りたいと思う人も多くないままにいつのまにかなくなっています。多くの若者はそんなものが大阪にあったということすら知らないようです。タワーなど必要もなく、少なくとも谷崎の時代には大阪には文化の中心地があったのです。それは船場、島之内、道頓堀辺りでした。

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だからこそ大阪ではあの辺りを中心に年中行事も盛んに行われてきました。谷崎は「正月九日の宝恵籠(ほえかご)のような催しを廃止したならば、大阪市民の暦の面はどのくらい淋しくなることであろう」と言っています。こういう表現で大阪の文化を称えているのです。しかし今の大阪は、道頓堀ひとつを見ても、全国どこにでもあるチェーン店やファッションビルが立ち並ぶ陳腐な町になってしまいました。今、大阪の人の多くは

    「副首都」

になることを期待しているそうで、私などはそんな大阪を見ていると嘆息が出そうになります。
谷崎は「凡ての作家が郷土を捨てて東京へ志すのは、大きくいえば日本文学の損失である」とまで言います。東京に比べて年中行事などの文化が豊かな地域なのだから、もししかるべき作家が大阪にいたら「たけくらべ」や「すみだ川」に匹敵する作品が生まれていただろうという谷崎は、それらしいものすらないのは「これだけの大都市の耻辱であるといっていい」と叱っているのです。私に言わせれば、

    織田作之助

の早世はその意味でも惜しまれます。
谷崎は、上方の女性は言葉少なく婉曲にものを言い、それが粘っこくて潤いのある声で言うので、品があって色気があって、余情と含蓄にも富むとも言っています。

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