六世豊竹呂太夫へ(1) 

明治時代に素人からプロになった太夫さんがいました。素人からプロへ、ってそんなの全員そうじゃないか、とのたまうなかれ。素人として長らく語っているうちに、いい年になってからプロになった人のことを言っているのです。
いわゆる「素人天狗」ですね。その中でもっとも成功した人というと

    はらはら屋の呂太夫

かもしれません。
初代古靱太夫門下で、豊竹呂太夫を名乗られました。もちろん初代です。この人の弟子にちょっと偏屈な感じの太夫さんがいました。文楽に腰を落ち着けて修行したのかというとそうでもなく、地方に行って素浄瑠璃を語ったり素人さんに教えたりすることが多かったようです。そのために、文楽の中ではあまり評価が高くなかったようです。「赤垣出立」などを得意としたそうですが、太夫として大成したとは言いきれないかもしれません。しかしこの人は

    教えるのが好き

で、しかもうまかったのだろうと思います。呂勢太夫、新呂太夫、祖太夫などを名乗りますが、最終的には二代目の呂太夫を襲名しました。昭和50年代まで活躍された三味線の四世鶴澤重造さんのお父さんに当たる方です。
この人が徳島に行ったとき、浄瑠璃の好きな金平糖屋の林さんという旦那のところに出入りしました。その家には、親に似て浄瑠璃が好きで、見よう見まね、いや聴きよう聴きまねでしょうか、とにかく巧みに語った子どもがいました。この子の才能を見抜いたのか、太夫は弟子にして一緒に各地を巡業したようです。林英雄というこの少年は名前の一字を取って「英太夫」と名乗りました。

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初代豊竹英太夫は、文楽にも出たのですが、師匠が旅に行くと一緒についていき、やはりあまり落ち着きませんでした。しかしやがて文楽に腰を据えて研鑽を積み、七世豊竹嶋太夫を名乗るまでになりました。嶋太夫は由緒ある名で、豊竹若太夫の前名としても受け継がれてきました。ところが七世は嶋太夫の後、三世豊竹呂太夫を襲名されたのです。呂太夫は明治に興った名前ですし、嶋太夫とは格が違うのではないでしょうか。にもかかわらず、師匠の名を継ぐという約束があったのか、三代目となられました。そして昭和二十五年には

    十世 豊竹若太夫

にまでのぼりつめられたのでした。
呂太夫時代のお弟子さんには呂賀太夫(のちの松太夫、三世春子太夫)、二代目呂賀太夫(のちの四世呂太夫、八世嶋太夫)などがいらっしゃいます。若太夫になってからのお弟子さんには若治太夫(のち歌舞伎の竹本清太夫)、若子太夫(五世呂太夫)などがありました。二世英太夫を名乗ったお弟子さんもいらしたのですが、このかたはあまり活躍されないままでした。
さて、この記事のテーマは

    「呂太夫」

です。初代が明治の素人から来たなかなかの名人、二世はその弟子で素人に稽古をよくつけたという人、三世はのちの若太夫、四世が八世嶋師匠、そして五世が若くして亡くなった、私などには「呂太夫」といえばこの人、というかたでした。
五世呂太夫は、小学生の時に住吉大社のすぐ近くにあった若太夫の家に夏休みなどには住み込んで稽古したそうです。そのころ、若太夫の孫の雄治少年とは2つ違いでしたのでよく遊んだのだとか。

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コメント

五世呂大夫

 私にとっても、呂太夫といえばこの方でした。初めて意識したのは、文楽鑑賞を再開したばかり、平成8年正月公演の「先代萩」政岡忠義でした。この方を通して、義太夫節の味わい深さ、胸に迫るもの、古くて新しい文楽の魅力を感じました。
 呂太夫と咲大夫、このお二方が、次の時代をリードする紋下格の太夫である、と確信しました。しかしあまりにも早すぎる死に、いまだに思いが尽きざるところです。晩年の、「盛綱陣屋」「帯屋」「国言詢音頭」いずれも忘れ難いものでした。 
 新呂太夫には、この義太夫節の伝統と共に、亡き五代目の思いを受け継いでいただきたいと存じます。

♪まゆみこさん

古くて新しいとおっしゃるのが、まさに五代目を表す言葉だと私も思います。
織さんがまだ若々しくて、小松、嶋がいらっしゃって、さらに呂、咲。文楽の将来は安泰と思わせる布陣でしたが・・・。

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